何のために働くか、ということについて、私は「人生における“味”を得るため」だと思う。

まず、生活していくことや生きていくことというのは、肉やサラダを含むフルコースをもりもりと食べるようなものである。
ステーキとサラダをそのままで食べることができるだろうか。割とキツい。
食べ放題にいけば、焼肉屋にいけばピリ辛のホルモンが、サラダバーに行けばドレッシングが並んでいる。
そう、味付けをなんとかすれば食べることができるものなのだ。

私も居酒屋さんで食べるレバーは大好きだが、それは思い切り赤ワインとか醤油とか砂糖で煮込まれているからである。味付けなしでレバーを食え と言われたら、きっと「タレとか塩ください」と言うだろう。
仕事は人生においてこの「タレ」とか「塩」、いわゆる味付け調味料的なものなのだと私は思う。

「人生」と「お金」は二の次、「自分にとって」は三の次だった教師時代

以前、私は教師をしていた際、プライベートも休みもほぼ投げ打った状態で仕事をしていた末に、体を壊して退職した。
自他共に認める仕事中毒だったと思う。

教師は、なりたかったことで、ある意味夢の1つで、夢が叶ったからこそ続けなくてはと自分に言い聞かせて盲信していた。
少ない休みの日も生徒に遭遇すれば声をかけて、先生の顔をし、なんなら趣味だったSNSも生徒のアカウントをパトロールし、テレビも雑誌も子供たちが好きな作品を見て研究していた。帰り道の駅近くの寄り道しそうな店のそばはたまに見回った。

仕事が楽しいから、やりがいがあるから、なりたかったから、とにかく自分の頭に言い聞かせていた感覚がある。お金云々よりも、やりがいや夢などを最優先していた。
「仕事中毒になった」、「仕事で身を滅した」はいわゆる「塩分過多」のようなものだと今になって思う。
当時の私は過労から不整脈と喘息を起こし、最後の方は授業の途中で座り込むほどに消耗してしまっていた。

仕事にどっぷり「塩漬け」になっていた私は文字通りそんな状態であったと今では思う。
そりゃたまに子供の頃にどハマりしたシーザーサラダドレッシングをペロリとして「うわしょっぱくて濃厚ででもちょっと美味しくてクセになるかも」と思ったことはあってもそりゃいくらなんでも水なし直飲みなんかしたら死んでしまう。
私は「教師」という「ドレッシング」を休みの日も直飲みしてしまっていた。
私は前菜のシーザーサラダ…のドレッシングの一気飲みでお腹もふくれぬまま、塩分過多で倒れていた。
「働く」ことが生きがいで、「人生」で、「お金」は二の次だったし、「自分にとって」は三の次だった。
ドレッシングを飲むために、サラダをつまむ。そのために私がいた。

転職してデトックス。初めて「サラダの先」を食べられるようになった

「残業してもらわなくちゃいけない日は必ずきます。帰れる時は帰ってください」
教師をやめて転職した先で、初日に言われた言葉だ。
USBに入れて家に帰ってつくるプリントもない。部活動や成績をつけるための休日サービス出勤もない。
小さな会社のおじさんたちとは、特段趣味の話をする場面も、飲み会もない。
職場でSNSをおそらくやっているのは私だけだろう。

初めて学校以外の職場に行った私は、初めて「プライベート」のおやすみをもらった。
休みの日に、友達と好きなゲームの話をしながら、砂糖のはいっていない大好きな紅茶を飲んで子供の流行でも子供向けでもなんでもない大好きなブランデーケーキを食べて、好きな文豪の本を読んだ。
あー、本来、おやすみってこうやってすごすもんだな。と思うと、塩気が涙と一緒に抜けていく気がした。自分の時間もだんだんと掴めるようになった。帰り道に、ちょっと美味しいものを食べても、服を買ってもいいんだな。働けていて、ちゃんとお金をいただいて、それでもってお金が「使える」ことが分かった。

適度な塩気のドレッシングのサラダを食べ終えて、スープとか、デザートとか、やっと自分の人生の随所を、少しずつ自分は食べ進められるようになった。
そうすると仕事もそこそこ楽しくなってきた。知らないことを覚えることは楽しかったし、日常の中で社会と関わりを持つ場面も増え、やりがいも出てきた。
「働きがい」を得て、何かを楽しむことに「お金」もちゃんと必要で、そのトップの主語として「自分にとって」が現れた。

ようやく、サラダどまりだった人生に先が見えてきた。今はランチのコース程度だろうか。ほどよい薄味のドレッシングに、スープに、多分もうちょっとでメインが見えてくる頃になりつつあるのかもしれない。
それをこれから、仕事と仕事で得たお金や経験で味をつけつつ、人生を美味しく食べすすめたいなぁ。だからやっぱり働いていたいかな。と思えるようになった。

「いい塩梅」の生き方を目指し、適度な味付けとスパイスを

仕事が命の友達もたくさんいる。
やりがいはとても美味しいけれど、どうか直飲みにならないように気をつけてと思う。

日本はまだまだ生涯において、仕事という調味料はメインもサラダもこれ1本!の、マヨネーズのような存在であったり、常備のふりかけみたいな感じではある。
そう考えると転職をした友人の話を聞いて、ドレッシングを変えたものだと思う。
主婦になった友達は子育てが現状でスパイスなのだろうし。
子育てと両立になったとき、皿の上がしっちゃかめっちゃかにならないように注意しなければならない。

人生の味、そう考えると、体調不良の時に「食べなきゃ!」と食べるおかゆの、梅干しのじんわりとした塩気を思い出す。
たまに思い切り働きたいように、めいっぱい食べたいと数粒盛る時もあるけど、疲れ切って、1つだけとか、かつお節をちょっとかけることもある。

生きることは楽しいがたまに苦痛なこともある。生きることをよく「食べていく」という。文字通り、「食費を稼ぐ」のが原点なのだと思うが、食事も楽しいがたまに苦痛なときもある。熱が下がって体調が治りかけの際に食べるお粥は美味しいが、食欲もなく熱にうなされているときはそれどころではない。無理やり食べる「作業」になってしまう。

お粥の上の塩漬けは、ちょっとあってのせるからいいのだ。自分が"塩漬け"の漬物になってはいけない。
文字通り「いい塩梅」の味で、働くこととは仲良くしていきたいものである。