「あのとき、ごめん」とは、まだ言えていない。

わたしは一度だけ、母を大泣きさせてしまったことがある。
人がガタガタと震え、小さくなっていき、原型が無くなるほどに崩れ果てた姿を見たのは初めてのことだった。
それは、わたしが反抗期真っ只中の、高校生の時だ。
ある夕方、お腹を空かせたわたしが帰宅すると、家に食べる物が何も無かった。普段は残り物のおかずや菓子パンなどの軽食が常備してあるのだが、その日は家族の人数にしては大容量の冷蔵庫も、電子レンジ横にある小さな食料箱も、すっからかんだった。空洞。そんなことは今までなかった。

その頃十代のツンツン絶頂期のわたしは、何故かこれに無性に腹を立ててしまったのだ。別室にいた母をわざわざ呼び付けるなり責め立て、詳細には覚えていないのだが(大変申し訳ない)、その場で思いつく限りの罵詈雑言を浴びせかけた。いつものただの癇癪だった。
多分、「最低限の飯も用意してくれない」「母親らしくしろ」「こんな家早く出て行きたい」…。

いつもはっきりとものを語る母がかすれた声で鳴くように言った

すると、しばしの無言ののち、母は部屋を出て行った。そして、十数分後、母は戻るなりわたしに向かって小さなビニール袋を叩きつけて叫んだ。

「どうして!!!!!!!」

母の目は真っ赤だった。怒りと悲しみと悔しさが、渦を巻いて二つの大きな火車となり、彼女の腹の底から湧き上がる激情を加速させているようだった。
そして、わたしが手に持っていた、おそろしく充電の減りが早いスマートフォンを奪い取り、両端を掴んで小さな呻き声と共に何度も何度も力を入れた。

それは、遂にごき、と音を立てた。丁度真ん中の辺りで折れたことが、濃いピンク色のシリコンケースの歪みでわかった。

母は、何も映さなくなった液晶を見てハッと息を漏らした後、堰を切ったようにぼろぼろと涙をこぼした。
いつも真面目で、働き者で、強い言葉を選んではっきりと語る母が、その場にへた、と座り込み、かすれた高い声で鳴くように言った。

「こんな事がしたいわけじゃなかった。こんなつもりじゃなかった。私、こんな母親になりたくなかった。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…」

弱音を吐くところを見たことすらなかった母の人生を思った

わたしはこれまで母が弱音を吐くところを見たことすらなかった。心臓がどきどきして、手が痺れた。声をかけるどころか、指をぴくりとも動かすことができなかった。

彼女はきっと、ギリギリだったのだ。もうずっと前から。

うずくまり泣きながら謝り続ける母が先ほど投げつけてきたビニール袋の中には、わたしが大好きないつものコンビニのメロンパンが一つ、入っていた。

母の人生を考える。
高校卒業後直ぐに実家を飛び出し就職し、二十代前半で店長を任され本社の教育担当にまでなったにも関わらず、結婚し、今までのキャリアを諦めて夫の自営業に協力するため国家資格を取った母。
出産する直前も、直後も、その後も休むことなく働きながら家事を全てこなす母。
同居する夫の祖父母の病気に寄り添う母。
頼れる親戚も、相談する友人もなく、ボロボロになりながら、憎たらしい娘の為にメロンパンを買いに行く母。

母がわたしの携帯を折ってくれて良かった。
彼女の心がひび割れて、何も映さなくなる前に、自分自身を守ってくれて良かった。
また、母はわたしを、母が壊れるきっかけをつくる罪からも守ってくれたのだ。
とことん大きな、強い人だ。

母を安心させられるわたしになって、言わなきゃいけないこと

わたしが大学卒業後、「結婚も出産もしたくない、やりたいことがあるので今のところは安定した職業に就けそうにない」と告げたとき、渋る父を母は好きに生きさせよう、と説得してくれた。そして、新しい〝女〟の身体を持つものとしての生き方を模索してみろと応援してくれた。

しかし、まだまだ何かと心配をかけてしまっている。わたしは最近軽いパニック障害を患い、二ヶ月半程家に引きこもっていたのだ。噂には聞いていたが、人生とはなかなか上手くいかないものだ。
とにかく母を安心させられるわたしになって、「ごめん」そして「ありがとう」と言うのが当面の目標だ。

明日は、アルバイト終わりに母の好きなバウムクーヘンを買って帰ろうと思う。