「僕を苦しみから解放してくれてありがとう」
私が別れを告げた時、彼はそう言って泣いた。まるで、私が悪いみたい。でも勘違いしないで。別れ話の発端は、彼の浮気だったんだから。
「あなたがいないと生きていけない」なんて泣いて縋って嘘がつけたなら、どんなに生き易かっただろう。

こんな私を「世界一美しい」と。異国でお姫様扱いしてくれる彼

数年前の冬。ヨーロッパに留学していた私は、陰鬱な寒さに耐えかねて、隣国の知人と関係を持った。お互いに長く付き合っている恋人がいたにもかかわらず接近した結果、私たちは恋人たちに別れを告げて、付き合う選択をしてしまった。
向こうがそれをどう思っていたのかは知らない。ただ、私は自分の愚かさを今でも恥じている。

ホームシックになった私の状況を知ってかどうか、彼は時間を見つけては、しばしば私の住む街までやってきた。
彼は、私を「世界一美しい」と褒めそやし、瀟洒なレストランで自分のパトロンらに紹介したり、車で日帰り旅行に連れ回した。彼が私に施す愛情表現は、私にとっては実に数ヶ月ぶりの特別扱いだったのだ。

勉学の為に居を移すことは、後ろ盾がなくなったような心細さを伴う。私が愛した美しい川と煌びやかな宝物を抱く街は、極東の島国の小娘ひとり住み着いたとて、無論それに関心を寄せる訳ではない。
スリに狙われぬよう鞄を抱きしめ、ひとり劇場の安い桟敷席に潜り込み、オペラを聴く日々。ロビーのそこここで、仕立ての良いスーツの男性が、女性の毛皮をうやうやしく脱がせクロークに預けている。それを横目に私は、長時間の立ち見に耐えうる靴で、香水の香りの混じり合う雑踏をすり抜ける。
母国でだったら、私だって毛皮を着てエスコートされながら観劇する身分よ。舞台を見下ろしながら、そう心の中で呟き唇を噛み締める。
けれど私の自慢の艶やかだった黒髪は、硬度の高い水道水でごわごわに広がり、柔らかかった肌は、凍てついた空気になぶられ、見る影もない。こんな私を特別扱いしてくれる相手、手放したくなかった。

別れて気付く、お互い所詮は自分の事しか考えていなかった

彼が歳上の女性と浮気したことを知った時、「あなたもしがみつく相手が必要だったんだね」としみじみしてしまった。
彼に縋りつき引き留めたい気持ちと、彼を情けなく思う気持ちと、「世界一」の座に奇襲をかけられた自分を惨めに思う気持ちが押し寄せる。まるで、私の価値が損なわれたかのような心地がした。
浮気が発覚した後も煮え切らない態度を取り続ける彼に、私は引導を渡すしかなかった。
「僕を解放してくれてありがとう」その言葉を聞いた時、私は笑ってしまった。あなたにとって私は、重荷だったのか。自分のことしか考えていないじゃないか。
そう詰ろうと息を吸った時、はたと思い当たった。私も、自分のことしか考えていなかったことに。
彼は私にしがみつくことができなかったのだと思うと、憐憫に近いものが湧いてきた。別れる時、私たちはようやくお互いを理解したらしい。

別れ話を終えて彼を見送り空を見上げると、抜けるような晴天が広がっていた。寄り掛かる存在を失った今、北風の冷たさが一層身にしみる。けれど、陽射しは明るい。ヨーロッパの春が訪れようとしていた。ポケットに入れたスマホが振動する。見ると、彼からのメッセージが届いていた。
「僕はこれからも君のことを愛するよ。未来でまた会えるかもしれない。神様が導いてくださる」
読んだ瞬間、ぞわあっと身の毛が逆立った。私はもう彼を愛していないみたい。なんという幕切れ。
「そういうの、もういらない。あなたの信じる神は、私には不必要」
私はこの社会では異物だし異教徒なのだ。どうしようもない。でも私は自分の人生を、誰かの導きだと思いたくない。私を「世界一可愛い」と言う男なんて、はなから必要なかったのだ。私に必要だったのは、自分を信じる強さだった。
今からでも間に合うかな。もう一度、私の舞台の幕を開けなくちゃ。