思えばあの人のことはもう、記憶の彼方。それを掘り起こすところから今、始めている。

世間的に多いか少ないかはわからないが、これでも30手前。数々の恋に泣いたり、乗り越えたり、逆に傷つけてしまったりした。

それでいうと、この恋は期間がとても短い。でも、何となく忘れられず、一番優しく温かく、少し悲しい思い出だと思う。

彼女がいるRさんの「キラキラした笑顔」に、一瞬で恋に落ちた

あれは私が大学生だった頃の話。長年勤めていた飲食店の私より何個か年上、笑顔と空気がとっても優しい人。そして、その人にはお付き合いをしている人がいた。

私は主にランチタイムのホール勤務、彼(以下Rさん)はディナータイムのキッチン勤務。接点なんてなければ、入れ替わりの時間に一言挨拶を交わすだけ、付き合っている相手もいるというRさんに当然、恋心を抱く可能性なんて一つもない、はずだった。

接点ができたのは、Rさんの就職活動が終わったとき。ディナータイム勤務だったはずのRさんは、就職するまでの少しの期間ランチタイムにも出勤し始めた。それでもキッチンとホール。頻繁に会話をする暇もないし、相変わらず挨拶くらいだったと思う。

仕事に対して本当に真面目な人だったので、その様子を「すごいなぁ」と思っていた。そして時間が少し経ち、決定的に私が恋に落ちる瞬間が訪れる。その瞬間の風景とそのときの衝撃だけは、どんなに記憶が薄れても忘れることができない。

その日のお昼時、これでもかというほど店内が混み合っていた。どこを見渡してもお客さん、お客さん、お客さん。当然ホールもキッチンもてんてこ舞いで、みんな髪を振り乱し働いていた。私はレジとテーブル、洗い場、お客様とを行ったり来たり。「ギリギリ捌き切れている。でも、これ以上は無理!」という状態だった。

お皿を抱え切れるだけ抱えて、ホールを横切ったその瞬間、小さな女の子が高めの場所にあるものに手が届かずにいるのが見えた。取ってあげなくてはと思った。しかし、私の両手には抱え切れるだけのお皿がたくさん。お皿を抱えたまま私は「ちょっとだけ待っててね」と女の子に一声かけ、ひとまずお皿を置き、戻ってきたときだった。

戻った先には笑顔の女の子と、キッチンにいたはずのRさんがいた。キッチンからホールの様子は少し見えにくい。それでなくても、この混みよう。キッチンにだって、余裕はなかったはず。そんな中女の子に気づき、その子の目線まで下がり、女の子以上の笑顔をその子に向けているRさんがいた。

女の子が席まで着くのを見送った後、汗だくの私を見つけ、その子に向けていたのと同じくらいの笑顔を私に向けてゆっくり頷いたのだ。本当に一瞬の出来事だったはずだ。いつもに増して騒がしい店の中で、その空間だけ本当にゆっくりと、そしてキラキラとした時間が流れた。

“一瞬で恋に落ちた”、その言葉がこれほど似合う瞬間はないと思った。

Rさんには彼女がいるけど「もう、無理だ」と思って気持ちを伝えた

その日の仕事終わり、私はその一瞬を何度も何度も思い出していた。その度に「いやいや、彼女がいる人だぞ」と自分の気持ちに蓋をした。

しかし、Rさんは見れば見るほど、話せば話すほど、本当に魅力的な人だった。何よりやっぱり、笑顔が好きだった。その瞬間に眉が下がり、普段は大きな目が一瞬で細く、口元に白い歯が少しいたずらっぽく見えた。

ある日の仕事終わり、次の日から長期で休みを取り、演劇の本番を迎えるため緊張していた私。私の好きな笑顔を向け「ゆぱちゃんなら大丈夫だよ」と言い、更衣室にあった小さなメモ帳に何か書いたと思ったら渡してくれた。小さなメモ帳が更に小さく畳まれたそれには、「おまもり」と書かれていた。

開くと不器用に手を挙げたかわいいくまが「ガンバ!!」と私に言っていた。びっくりして顔を上げた私に、更にいたずらっぽく満足そうに笑ったRさん。蓋がしきれず、どこへぶつけていいのかわからない感情が溢れかえっていた。

「もう、無理だ」そう思った頃、Rさんの職場の退職が迫っていた。私は決心した。「気持ちを伝えて、終わりにしよう」

通っていた大学の長い机とベンチが並んだ大きな広間の端っこに座り、深呼吸をした。職場のグループLINEの中からRさんのアイコンを見つけ、初めて個人的に連絡をした。

「お話ししたいことがあります。今お時間ありますか?」とメッセージを送った。少し時間が経って返事が来たことを確認し、初めて電話をかける。緊張して声が震え、たどたどしかったであろう私の話を静かに、でもしっかりと聞いてくれているのが電話越しでもわかった。

私は「彼女さんがいることは知っています。なのでどうしたいとかはありません。でも、伝えなきゃと思って。好きです」と言った。

私の話が終わった後しっかりとした声で「気持ちは本当に嬉しい。でも、彼女が一番大切なんだ」と彼は言った。

そんな真っ直ぐすぎるところも好きだなぁと思った。出会った時、恋に落ちた瞬間と告げる時まで、ふられることが決まっていた、私の短すぎる恋は、すっぱりと後悔なく終わった。

彼女のことを大切にする「真っ直ぐすぎるところ」も好きだった

その後、人伝てにその彼女さんと結婚したことを聞いた。

電話の最後に「ゆぱちゃんには、俺より良い人がいるよ」と言ったRさん。顔は見えていないけれど、きっと今までの笑顔とは少し違う困った顔で笑っているんだと思った。

ちょっと仕返ししてやると思った私は「そんなこと、私が好きなあなたが、私に言わないでください」と言った。

努めて今までで一番明るい声で、少しいたずらっぽい彼の笑顔を真似して笑ってみせた。