その日は、江ノ島に来ていた。久しぶりのデートっぽいデート。
小田急線の電車の中で待ち合わせした。落ち合うと、「テンション上げるためにSyrup 16gを聴いてきたわ」と笑った。
Syrup 16gとは、ジャンルとしてはオルタナティブ・ロックの暗めの曲が多いバンドだ。彼なりの「楽しみにしてたけど暗い曲を聴いてきた」というボケだ。「ちょっと、そこはアジカンのサーフ ブンガク カマクラでしょ!」とつっこむ。わたしたちは、浅野いにお先生に負けないくらいのサブカルカップルだった。
江の島でのデートは美味しい海鮮丼も食べて、人込みを避けて歩いた
彼はバンドマン。同じバイト先で、音楽に詳しいことがきっかけで付き合うことになった。付き合うことになった日も、ライブを観に行った。まだ日本アカデミー賞を受賞していない竹原ピストルが汗を飛ばしながら歌い、ギターを掻き鳴らしていた。その姿に心熱くなり終電を忘れて語り合った。彼のライブにも毎回足を運び「人が呼べないからまたライブ来て。彼女なんだから、頼むよ」と言われたら、一人で行って一人で帰った。
江ノ島に着いて、海鮮丼を食べようと手を繋いで歩く。彼の手は白くて指が長く、細くて、しなやかで大好きだった。
彼は、調理師免許を持っていた。飲食店でのアルバイトを4つ掛け持ちしていたのに、お金はなかった。 お互いお酒が大好きだから、赤提灯の店内がわかりづらい居酒屋に入ってみたり、昼から一緒にご飯を作ってお酒を飲むのも楽しかった。海鮮丼のお店も路地にひっそりと佇む、渋い看板のお店に入った。
メニューを見て、焦った。ちょっと高くない? 価格帯の平均が大体1,000円くらいだった。しかし、海鮮丼は2,000円くらいする。けれど、彼はこういうデートでは、美味しいものをお金を気にせず食べる人だ。だから、あまり気にしなくていいはず。豪華な海鮮丼やおつまみを頼んでお酒を飲む。「やっぱり休みの日は、早い時間からお酒を飲むのが楽しいね」と笑った。お代は、わたしの方が多く払った。
その後も「俺、人混み嫌いだから」と定番スポットを訪れることもやめて、人混みを避けぶらぶらと歩いた。人がいないところは、なんだか世界に2人だけみたい、なんてロマンチックなことを思った。彼が「写真、撮って!」と言うので、海をバックにわざと怪訝な顔の彼を写真に収める。「なにその顔」と言って笑った。
離れてもつなぐ、手と手。
わたしは1ミリも「楽しい」と思わなかった。
好きなのに、そばにいるのに…わたしは彼の一挙一動に「怯えて」いた
「お金が足りなかったらどうしよう!」「人混みで彼が不機嫌になったらどうしよう」「お金がないから、またお店に入るわけにもいかないし、夜になったらどうしよう」と頭の中では、何手先もの行動と彼の機嫌を伺って気が気じゃなかった。
彼が不機嫌になったら、黙って口をきいてくれなくなる。その地雷がどこにあるからわからない。冗談で言った一言で一日口を聞いてくれなかったことも度々あった。今だったら「フキハラ」。不機嫌ハラスメントの記事を読んだ時衝撃だった。真っ先に彼の顔が浮かんだ。私が行きたいところには「あぁ、俺ここで待ってるから行ってきて」と言って、スマホをいじって待っていた。
好きなのに、手を繋いでいるのに、そばにいるのに、その人の気分が、振る舞いが、表情が、少しも見過ごしてはいけなかった。そう、彼の一挙一動、わたしは怯えていたのだ。
彼のサラサラで黒い髪や白い肌も、ふざける時の顔も、笑う時口を隠す仕草も、長いまつ毛も、今になってもこんなに詳細に記すことができるくらい、泣きたくなるほど好きだったのに。
もうこれは、恋人同士ではない。子供をあやす母親だ。それに気づいた江ノ島の夕日が綺麗で、風が肌寒かった。
彼女だからって「尽くすのが当たり前」だと思ってる男、もういらない
その江ノ島デートの日から、エアコンのない、せんべい布団が敷きっぱなしの未読のジャンプが積まれた足の踏み場のない部屋。私の物を片っ端からゴミ袋に入れた。なくて困っていたドライヤー、電気屋さんで安くて風量が強いのを探して私が買ってきてあげた。
3,000円のドライヤーも自分で買えないような男、自分の機嫌も自分で取れないような男、彼女だからって尽くすのが当たり前だと思ってる男、全部捨てるの。もういらないの。
初めてもらった合鍵を置いて、わたしはこの家を二度と訪れなかった。
初めてのデート。終電を逃して、彼の家に行く道中、フジファブリックの「赤黄色の金木犀」を口ずさんだ。手を繋ぎながら「金木犀の匂いがするよ」と言った。「どの匂い?」と言うので「この、この甘い匂いだよ。わからない?」
金木犀の匂い、わかるようになったのかな。わたしはSyrup 16gも、フジファブリックの「赤黄色の金木犀」も知らない人と付き合っている。一年に一回しか機嫌が悪くならないびっくりするほど器も体も大きな優しい人だ。
季節はもう、“桜の季節”も近しい。