数日続いた雨が嘘のように、その日は青が澄み渡ったとても綺麗な空だった。
下宿先から新たな住居への引っ越し準備中に、祖母が危篤状態であること知った。その年の夏に、祖母は体調を崩し入院したが無事回復し、家族皆で「不死かもね」なんて言って笑った。祖母も嬉しそうに笑みを浮かべていた。
それなのに、どうして。体から血の気が引いていった。危篤状態だと連絡がきた翌日が、引っ越し日だった私はキャンセルすることも出来ずにただただ時が過ぎるのを待った。
危篤状態の「祖母」を目の前に、思い出がどんどん蘇ってきた
引っ越しを終え、直ぐに祖母の元へ向かった。「どうか間に合いますように」と、それだけを道中祈り続けた。同時に「どうしてもっと祖母との時間を大切にしなかったのだろう」と後悔の波が押し寄せた。
祖母は、徐々に鬱病に侵されていった。ある時から祖母と関わろうとしなかったためか、私には鬱病というより軽度の幼児退行に見えていた。よく家に来るようになり玄関ではなくリビングに面した大窓を叩いては私達の反応を待っていた。私の母を「お母さん」と呼ぶようになり手を握ってもらいたがった。
当時高校生だった私は、受け入れることが出来なかった。母に甘えたがり、週に何度も家に来る祖母も全てが嫌悪の対象だった。祖母に優しくしてもらった記憶はたくさんあるのに、祖母に優しくした記憶を私は思い出せない。
病院に着くと姉が病室まで案内してくれた。病室には祖父と父、そして変わり果てた祖母の姿がそこにあった。「もう喋ることも食べることも出来ない、息をしているのがやっと」だと姉が言った。ろくでもない孫のくせに一丁前に涙だけは溢れてきて、比例するかのように思い出もどんどん蘇ってくる。
私が生まれた時「この子の目は目千両、美人な子に育つ」と言ってくれたこと。大きな海と貨物船が見えるレストランで一緒にハンバーグを食べたこと。『カリコリケーキ』と名づけた祖母特製のケーキを作ってくれたこと。
私は何をしてあげられたのだろうか、何も返せていないのに。思い出せば出すほど涙が溢れてて止まらなかった。何度も謝り、祖母の頭を撫で手を握って眠った。危篤だといわれた祖母の容態は、一時的に安定状態に入った。といっても低空飛行をし続けている状態に変わりないのだが医師は「皆がそばにいるからだ」と声をかけてくれた。
私が祖母に寄り添ったのは「死ぬ間際」だけだったのかもしれない
一度実家に戻った私は、祖母が写っているであろうアルバムとピンク色のハンカチを取りに行った。目が見えているか分からないけれど、元気だった頃の写真を見せれば懐かしんでくれるかもしれない。ハンカチは持っていこうと思ったのは、祖母はピンク色が大好きだったから。大好きな色を見ることで、少しでも喜んでもらいたい。その思いで、私はアルバムとハンカチを鞄につめた。
今更こんなことしても、自己満足でしかないことはわかっていた。私の手の感触や温もりや顔を覗きこんでも祖母を見ても、それら全てが伝わり見えて、届いているのか分からない。それでも可能性のある限り、謝罪と感謝を言い続け、祖母が大好きだと言っていたピンク色と家族の顔を見せようと思った。
昼間は祖母が好きな歌をダウンロードして流したり、家族とふざけあって大笑いしたり、寂しがりやで家族と一緒にいることが大好きだった祖母は嬉しかっただろうか? 楽しいと思えただろうか? 混ざりたくて、寂しい思いをしてないといいけれど。
そうしてクリスマスの朝、家族に囲まれながら祖母は息を引き取った。母は「良かったね、お義母さん」と言った。良かったの、だろうか。確かに皆に看取られてこの世を去っていくことは良かったとされるのだろうけど。
私が祖母に寄り添ったのは、死ぬ間際だけだった。祖母の意識がちゃんとあって、目を見て対話をすべき時に私は何も、何も出来なかった。病室の中で立ち尽くす私に姉が一言「nagemiはとても優しいよ」と、私の名前を呼び言ってくれた。
失ってから気づく大切なもの、という言葉を身を持って実感しないと分からなかった私は、大馬鹿者だ。“死”とは、こんなに重たいものなのか、自分にとって身近な死でないと死を理解していなかった。“また”という言葉は、なんと不確かなものなのだろう。「また会いに来るね」と告げたあの夏を最後に、私と祖母の時は止まったも同然なのだ。
病院を出ると、陽の眩しさについ目を細めた。数日続いた雨で、病院の駐車場には幾つか水溜りが出来ていて、光を反射しキラキラと輝いていた。元旦に生まれ、キリストの生誕日に祖母は旅立った。めでたい日に生まれ、去っていった人だったなと、そんなことを思った。
死化粧は私と姉で行った。生きている間にしてあげたかった、そう思いながら祖母の唇に紅を塗った。葬儀には相応しくないとわかっていたが、祖母の好きなピンク色のリップを塗って参列した。
火葬場では、不思議なことが起こった。火葬後の祖母の骨は、薄いピンク色を帯びていたのだ。この人は、骨の髄までピンク色に染まっていたのか。骨に色がついた原因は生前無類のピンク好きだということにしておこう、と家族と笑いながら話した。
家族を「愛する心」に火を灯してくれたのは、紛れもなく祖母だった
死は必ず訪れる。私自身に何もなければ必然的に私を愛してくれた人達が先にいなくなってしまう。その終わりは遠い未来の話ではないことに祖母の死を持って体感した。
思い出を形に残そう、行きたいところがあれば連れて行こう、顔を見せに話しを聞きに、しに行こう。あんな後悔を私は、もう二度と経験したくない。
祖母の仏壇の前に座ると、どうしても後ろめたさが勝る。「おばあちゃんが生きている間にもっと来ればよかった、ごめんなさい」。祖父母の家に行くたびに懺悔し、後に近況報告を伝える。
祖母への挨拶をすませると、居間でお茶を用意してくている祖父の元へ行く。一緒に茶菓子を食べて話すこともあれば、のんびりと縁側に座る時もある。祖父は「まだ一緒にいるような気がする」とたまに口にこぼす。死後の世界を信じてないけれど、そうだといいなと都合よく思う。
祖母が生きているうちに、してあげれなかったことを今生きている人たちにしよう。私を愛してくれた分、私もその愛を返していきたいのだ。家族を愛する心に火を灯してくれたのは、紛れもなく祖母だった。