先日、数年ぶりに会った友人と思い出話や近況報告をしていた時、私たちはある話題に行き着いた。私の友人が、学生時代の同級生たちと会った時の話だ。

私たち2人はそれぞれの同級生に、見事に「マウンティング」された

彼女の同級生のうち1人が、全身にブランド品を纏って現れ、そのブランド品たちを買い与えてくれた男性たちの話をし始めた。他にも真面目に働く人は、馬鹿を見るといった様な話が続いたらしい。真面目に働く私の友人への当て付けとしか思えないが、そんな彼女の同級生が帰り際に放ったのは「あなたも頑張って」の一言だったそう。

この時の「頑張って」には「いい男を見つけなよ」とか「せいぜい真面目に働きたまえ」という、なんとも上から目線な含みがあると感じたのは、私の過剰反応だろうか?

そして私は私で、最近モヤモヤした経験を友人に打ち明けた。私も学生時代の同級生何人かと集まった時の話。26歳が集まると、自然と話は結婚の話題へ。そんな中、同級生の1人が、自分が既に手にしたものを述べ始めた。

仕事、結婚、こども…。早くにこれらを手に入れることは、いいことだと強く勧められた(と私は感じた)。おそらくあの場にいた全員が、同じ意図を感じたはず。一瞬空気が凍ったし、私の顔も凍った。

私はその同級生が挙げた物のうち、まだ何一つ手にしていない。結婚どころか彼氏すらいない。いろんな違和感を感じたけど、わざわざそれを説明する場でもないと思い、とりあえずその場では「おめでとう」と祝福した。そう、私たち2人はそれぞれの同級生に、見事にマウンティングされたのだ。

同じに見えても同じ人間なんていないはず。だから優劣はつけられない

なぜ私たちの同級生たちは、私たち相手にこんな話をしてきたのだろうか? 結局、その同級生たちは誰かに認められたくて、わざわざそんなこと言うのだろうという結論に至った。自分たちが幸せなことを証明するために、わざわざ私たちの心をざわつかせるのだ。

その後、マウンティングに興味を持った私は、友人と別れてから帰宅までの間に、もう少し“マウンティング”という言葉をネットで調べてみた。マウンティング。それは本来、猿などの哺乳類が優劣を示すため馬乗りになる行為、なんだそう。

それが人間に置き換わると? 馬乗りの代わりに既婚or未婚、仕事の昇進、年収などのワードで相手をねじ伏せる、といったところだろうか。

本来ならこのマウンティング、同じ種同士で行われる行為のはず。例え同じ猿でも、ゴリラとニホンザルでは成立しないだろう。

私もマウンティングしてきたあの人も、同じ“人間”ではある。でも、正直ゴリラとニホンザルくらい別の人間だと私は感じている。仕事は全く別の職種だし、住んでいるところも違う。数年間同じ学校に通ったけれど、それは26年中のほんの数年だけだ。それで同じだと言われても私は納得できない。

ちなみにゴリラとニホンザルでは、類人猿と猿人類で同じ猿だと思っていたが、実は生物学的には別物らしい。人間だってそうだろう。同じに見えても同じ人間なんていないはず。二つは優劣のつけようがない。

マウンティングする側の人は、きっとそんなことなんてどうでもいいのだろう。でも、される側の人間からすると、知っておくだけで気持ちの持ちようが違う。

「マウンティング」されたら、ゴリラとニホンザルを思い出しそう

マウンティングされると、驚きと共に屈辱が押し寄せ、そればかりが頭の中を支配する。言いたい放題にさせておくのは腹が立つが、言い返しても自分が虚しくなるので、取り敢えずその場をやり過ごす。

もしそんな場面に遭遇した時、ゴリラとニホンザルを思い出せば、心の中でフッと笑えるかも。そしたら相手の言葉なんて、もう気にならなくなっているはず。

覚えておきたいのは、あの人と私は全くの別物で、相手がなんと言おうと優劣のつけようがないということ。私と同じ人なんてどこにもいないのだから、相手の言うことなんて気にしない。

勝手な価値観で私を押さえつけることなんて、もう誰にもできない。