父の吸う、セブンスターの香りが好きだった。
オレンジ色の蛍光灯の明かりが灯る天井に、ゆらゆらと上ってゆく煙を見るのが好きだった。幼心に、何の抵抗感もなかった煙草。大きくなれば当然のように指先は煙草の香りがした。

煙草を吸う人の、ちょっとパンクな空気が好き。退廃的で、投げやりな

煙草を吸う人が好きだ。その仕草や、表情一つ一つが好ましいと思う。
大学1年生で付き合った年上の彼氏は、私が知る中で最も美味しそうに煙草を吸う人。雪がちらつく季節に、わざわざベランダに出て、寒さに肩を縮こませながら吸っていた、その背中が好きだった。
 いつしかその背中に並んで、アメリカンスピリットの煙を共にくゆらせるようになった。

煙草を吸う人が纏う、ちょっとパンクな空気が好きだ。退廃的で、投げやりな雰囲気。嫌煙ブームなんて知るか。早死にしようが関係ない。長生きなんてくそくらえ。俺は好きなように生き、さっさと死んでやる。太く短く生きてやる。

一本吸うごとに15分寿命が縮まりますよ、「百害あって、一利なし。」その通りだと思う。それでも、自分はやめようとは一度だって思わなかった。

これからも、人生のあらゆる局面で、味わっていたかった

留学中、何人もの友人と一緒に煙草を吸った。
ベトナムの朝。排気ガスが立ち上るバイクの大渋滞を眼下に、くたびれたビルの屋上で吸う煙草。フランス人の友人が吸うマルボロを、私も一緒に吸っていた。普段は化粧バッチリの彼女が、長い髪をバスタオルで頭の上にとぐろのように纏め、バスローブをだけを羽織った横顔。長い睫毛に白い煙が触れていた。静けさなど皆無。ひっきりなしになるクラクションがいくつも折り重なって。それでも私たちにとってそれは安らぎの時間だった。

フィリピンの語学学校で、夜中にふと外の喫煙所に足が向かう。深夜のその場所は虫の声も聞こえない程静かだが、額に汗がにじむ程じっとりと暑い。そして、汗をかき、むき出しになった腕や脛は、暗闇に潜む大量の蚊の餌食となる。それでも、幾分かましな少し気温の低い夜。ベンチに足を組んで座ると、ハロウィンの飾りがそのままになったオレンジの電灯のイルミネーションが見える全てを飾っている。少し遠くに立った大きな木や、宿舎に続く道を囲んだ柵。喫煙所の屋根を支える支柱にも。

指先に熱を感じるほど残りが少なくなって、遠くの方から親友のシェザが大きながに股でズボンのポケットに両手を突っ込み歩いてくる。私は小さく笑って、二本目に火を付ける。

そこから、時間を忘れて語り合う日があり、気づいたら夜が明けていた日もある。

煙草を吸わない人に対して何か思うわけでもないし、むしろ吸わないでいて正解だ、正しいと思う。
それでも私はあの贅沢な時間を、捨て去ることができなかった。これからも、人生のあらゆる局面で、味わっていたかった。

「すごく、怖いの」。彼女は、お腹を優しく撫でながら小さく言った

そんな私が何故煙草をやめたのか。

それはいくつか理由があって、その内の一つが私は決して“やめられた”訳ではないということだ。
それはつまり、ネガティブな感情から、ストレスの捌け口に煙草を吸っていたわけではないということ。雰囲気や、時間、友人との交流の一つの手段として、変な話だがあくまでポジティブに煙草を吸っていたのだ。

これは、一つの要素として非常に大きいと思う。
しかし、決定的なきっかけは存在した。
それが、幼い頃から酸いも甘いも共に味わった友人の言葉だった。

昔からの大親友。良いことも、悪いこともやるときは一緒だった。
からからとした彼女の性格が好きだったし、時折見せる、人の全てを肯定し、包み込むような強烈な母性に、何度も救われてきた。
そんな彼女に、子供ができた。

大学に行った私より、一足先に社会に出ていた彼女。彼女は、愛する人と出会い、結婚することを夢見ていた。実際に出会った人も、安心して彼女を任せられるような、器が大きい誠実な人だった。
彼女はとても幸福そうだった。そして、勿論、愛好していた煙草を難なくやめた。私も、彼女の前では二度と煙草を吸うことはなかった。
ある日、お腹の大きくなり始めた彼女が、そのお腹を優しく撫でながら小さく言った。「すごく、怖いの」

消え入るような声を決して聴き逃さなかった私は、「何が?」と丸まった彼女の指先に視線を落としながら尋ねた。
「ねえ、どうしよう」
「何が?」
「この子に、何かあったらどうしよう。」
彼女の指先はかわいそうなほどブルブルと震えていた。
「怖くて堪らないの。過去に私の吸っていた煙草で、この子の身に何かがあったらと思うと、怖くて眠れないの。ねえ、どうすればいいの。そんなことあったら、私どうすればいい?なんて馬鹿だったんだろう。そんなことがあったら、私」
言葉はそこで途切れた。彼女が声を上げて泣き出したからだった。

私の大事なもののために、自らの人生を呪うのはごめんだ

芯の強い、凛とした女性だったから、びっくりした。子供ができて初めて、彼女が子供のように泣きじゃくる姿を見た。
私は、全身を震わせる彼女の背中を、ただ撫でてやることしかできなかった。抱え込むように彼女を抱きしめて、長い髪と、まだまだ華奢な背中を、いつまでも往復した。
その出来事は、私にとって何だか決定的な事だったみたいだ。
元々ポジティブな気持ちで始めたものだ。あんな彼女の姿を見ていたら、もう吸ってはいられなかった。

別に今、結婚願望があるわけではない。まだまだ私は若いのだし。
それでも、やめようと思えたのは、あの贅沢で素晴らしい時間を手放してでも、いつの日かくるかも知れないその日の後悔を少しでも減らしたかったからだ。私の大事なもののために、自らの人生を呪うのはごめんだ。

私の好きな音楽、人、映画、本。至る所にその影はある。
喫煙所に向かう背中を見送るようになって少し寂しくもあるし、今だって煙草を吸う人は嫌いじゃない。

それでも、私はにんまりとベンチに座り、文庫本を広げて待っている。
煙草を吸っている人を、一人で待つ時間も、意外と好きになれそうだった。