恋愛という土俵に立ったことがない。
恋愛において、モテる、モテないという表現をする。インターネットの記事にはモテる女子の特徴や、モテる女子のコーディネートなど、さまざまな情報が玉珠混合になっている。私はそれを見て、自分を見返す。
恋愛をしよう、恋愛をしなくてはと思ったのはいつのことだったろうかと。
小学生、中学生時代に、好きなタイプは?と聞かれて、答えなくてはいけない雰囲気の時に、なんとなくかっこいいと思った人を名前にあげたけれど、本当にそれが恋なの?と聞かれるとYESと言い切れない。
恋愛も結婚も自然としたくなるものかと思い込んでいたら、そうではなかった。それを知った時の私の困惑は、今も続いている。
恋ができないことが、とても幼く恥ずかしいことのように感じる
歳を取ったら、背が大きくなり、体重が増えるが如く、恋をしたい、結婚したいという気持ちが、雑草のように芽生えてくると思い込んでいた学生時代。
みんなはどんな風に思っていたのだろう。周りが恋人を作っているから、作りたいと思っているうちにそれが当たり前になるのだろうか。それとも、支えてくれる人の有り難みや、愛おしさ、それに気づいて恋人を作ろうとするのだろうか、一緒にいて楽しいと思えて作るのだろうか、私には未だ分からない。
そして、それが分からないのがとても幼い、恥ずかしいことのように感じてもしまう。
今、どんなに独身の人も増えてると言われても、多くの人が結婚、あるいは恋愛をしている、という事実があるのは変わらない。そして、そこに属していない私は『変』なのだろうか。そもそも、この悩みを持つこと自体が、世間との『ズレ』を感じてしまって、嫌になってくる。
学生の時代に、学校の必修科目の様に、恋愛を学ぶ授業でもあったらよかったのに、などと思うくらいには、自分の気持ちと、周囲との気持ちの差に悩むのだ。自分の幼少期の刷り込みの様な、当たり前の家族像。結婚して子どもがいるという、刷り込みと、現実は全く恋愛をしたいと思わない気持ちの乖離。
相手が辛い時、支えてあげたいと思える程の人ってなんだろう
恋愛感情があるのかないのかすら分からない。私がほしいのは愛情なのか、それとも証明なのか。
私は、たとえ恋愛しなくても、存在していいという証明が欲しいのかもしれない。独りで生きていても、死後安心ですという、証明があればいいのかもしれない。
そんな都合のいい証明は、自分で積み上げるしかないのだが。
いつか自分も、この人と一緒にいたいという人に出会うかもしれない、でもそれは確実ではない。今の私の精神では、その見えない、分からない相手を期待するのは、とても辛いのだ。
ネガティブだな、と自分でも思う。でも、自分で必死に恋愛感情も奮い立たせずに、相手を探すことをしていない私には、いつかそんな人が来るでしょうと言う権利は無いのかなと、思ってしまう。
でも、こうも考えている。無理に恋愛感情を奮い立たせて、ストレスを最大限にしながらする恋愛とは、と。ただこれを説明すると、ああ、拗らせた女だなと言われるから、本当に親しい人にだけ言うのだ。心の支えになる相手は素敵だ、でも、相手が辛い時に支えてあげたいと思える程の人ってなんだろう、私にはそれが分からない。
自分の敵は自分なのだと、試行錯誤して生きている
私はただ見えない敵に怯えているだけ。
結婚をしないと将来が不安。行き遅れた女。モテない可哀想な女。
この言葉はインターネットの海にポロポロと落ちている。私はそれを見て、勝手に、今、目の前にはいない、仮想の敵に怯えているだけなのだ。自分の道を信じて進めばいいのに、ひたすら怯えているのだ。
別に恋愛に挑んで失敗しても、結婚に失敗しても、誰とも結婚しなくとも、それで私は罰金を払わされたり、死刑になるわけじゃない。なのにまるでバカにされているかのような錯覚に陥っている。
ある意味、自分の敵は自分なのだと、今も試行錯誤して、生きている。
私の様な人だって、この世にはまだいるはず、そういうポジティブな気持ちは、見えない敵より弱く、すぐに見えない敵の方が勝ってしまう。今こうして、文章に書き出すことは、自分を鼓舞しているつもりだ。私なりの、自分自身へのエールだ。
こうやって考えてることだって、素晴らしいことだよと、自分に言い聞かせて、自分を愛してあげていくしかない。