会社からは優秀な戦力として見られたいし、夫からはかけがえのない心強いパートナーに見られたいし、娘からは優しいママに見られたい。
子どもの都合で休みがちで迷惑なお荷物社員だと、家事に育児に翻弄されっぱなしで頼りないパートナーだと、いつも疲れ顔でガミガミ怒る鬼ママだと、そんな風には見られたくない。

見られたい姿は明白なのに、どれも頑張りが空回りして、見られたくない姿ばかりが露呈しているような気がする。
どれも間違いなく私のことだけど、なんだかどれも本当の私じゃないみたいだ。

仕事と育児の両立で私は疲れ切っていた。子どもの母親として生きるので精一杯だった

産後すぐにスタートしたワンオペ育児は、想像以上に過酷な日々だった。近くに頼れる親戚も、気軽に利用出来るサポートサービスもなく、夫は早朝から深夜まで激務の為、たった一人で育児の全てを背負い込むことになった。3時間毎の授乳で細切れ睡眠が続き、常に頭がぼーっとして何がなんだかよく分からないまま、必死に新生児が死なないようにお世話し続けた。言葉が通じない生命しかいない二人きりの部屋で長時間過ごしているうちに、私は完全に社会から切り離された存在になったような気がした。

だから、保育園が決まり職場復帰できると分かった時は、また社会と繋がれるようで嬉しかった。
しかし、いざまた社会との繋がりができると、自分というものがごっそり抜け落ちてしまっていたことに気づいた。
仕事をしようにも子どもの送迎と呼び出しに応じることで思うように進められず、買い物をしようにも子どもを連れていると必要最低限のものしか調達できず、家事も子どもの相手もどっちつかずで余裕がなくなり、夜に夫の話を聞こうにも疲れきった私にはその体力も気力も残っていなかった。

ただ子どもの母親として生きるので精一杯だった。
私という人間は、何が好きで、何に喜びを感じ、何に心を動かされるのか。
一体私は何なのか。
もう何も分からないほど心が枯れ果てていた。
今食べたい食べ物さえ思いつかないぐらい、私は私が見えなくなっていた。

ふと見たTwitterで枯れ果てた心に一滴の水が染み込んだ。私は私を見失っていたのだ

強い喪失感に押し潰されそうになった時、ふとTwitterの存在を思いだした。子どもを置いてどこかに出掛けることは出来ないけれど、Twitterなら子どもを抱っこしながらでも操作できると気づいた私は、久しぶりに青い鳥のアイコンをタッチした。
ログインすると、かつて自分が好きだった作家や映画監督や俳優やアーティスト達の活躍が眩しく輝いていた。テレビやラジオの出演情報やイベントの画像が並び、かつて嬉々として愛を語り合ったファン仲間がワイワイお祭り騒ぎをしている様子が目に飛び込んできた。

そうか、私はこれが好きだったんだ。
枯れ果てた心に一滴の水が染み込んだ瞬間だった。

子どもを産んでからの私は、何処にいても何をしていても常に「母親」として見られることが当たり前になった。「母親」が会社員をやり、「母親」が買い物して、「母親」が銀行や役所で手続きをして、「母親」が家事をする。朝、目が覚めてから夜眠りにつくまで、私には誰から見ても「母親」という見られ方がべったりと貼り付いていた。

子どもが産まれたことで、私は母親としての見られ方だけに囚われていた。
「良き母親として見られたい」。その思いが暴走して、私の全てを侵食していた。
私は私を見失っていたのだ。

何にも属していないひとりの時間を設けた。少しずつ私が変わり始めた

子どもが産まれる前は、私は私をきちんと見つめ、私の心の声を聞き、私と向き合う時間があった。
仕事終わりにお気に入りのカフェでゆっくりコーヒーを飲みながら好きな小説を読んだり、休日は電車に揺られ遠くの小さな映画館で一日中映画を観たり、道すがら知らないアーティストの個展にふらっと立ち寄ったり。
誰からの見られ方も気にしない、私だけが私を見つめてあげる時間が、そこにはあった。
会社員でもない、妻でもない、母でもない、何にも属していないただひとりの時間こそが、私を私たらしめていた。

最近、仕事も家事も片付けて子どもを寝かしつけた後に、リビングでノンカフェインコーヒーを飲みながら小説を読んだり、映画を観たりする時間を作っている。気分によって、好きな色のペディキュアを塗ったり、好きな香りのクリームで自分の手足をマッサージしたりもする。

ほんの30分ぐらい。
会社員でもない、妻でもない、母でもない、何にも属していないただひとりの時間。

この時間を設けるようになってから、少しずつ私が変わり始めた。会社で自分の意見を発信できるようになり、買い物で自分が食べたいものを選べるようになり、子どもを笑顔で抱きしめることができるようになり、夜寝る前に夫と会話するのが一日の楽しみになった。

私を一番近くで見ているのは、他の誰でもない、私だ。
私が私を見失ってどうする。「母親」だけど、「母親だけ」じゃない。
私の見せ方は、私が決める。