私の親しい友人達の話。彼女達は月1回程の頻度で、LINE通話をしながら「どうぶつの森」をするそうだ。
彼女達は近況報告もそこそこに、お互いが作った「島」を行き来する。そしてただただ、ファンタジーの世界を楽しむらしい。
例えば、2人で暖炉にあたりながらボーッと炎を眺めるなどして。その間じっと無言で過ごすんだとか。
……私はそんな時間の過ごし方に、憧れる。
いつからだろう。無言の時間が過ごせなくなったのは
私が憧れているのは、その「無言で過ごす」という行為なのか、それとも「無言で過ごせる」2人の関係性なのか。……おそらくはその、両方なのだと思う。
私は誰かと無言で過ごすことが得意ではない。対面であっても、電話やビデオ通話であっても。私と相手との間を無音で流れていく、時間や空気。私にとってそれはなんだか、居心地が悪いものなのだ。
高校生の頃などを思い返せば、こんな気まずさを経験したことは無かったように思う。
日々、親や兄弟以上に顔を合わせる友人や彼氏。そんな相手と話していると、会話が途切れるということがそもそもなかった。たまに訪れる無言の時間にしたって、大して気に止めたことはなかったのだ。
なのにどうして。今の私は、無言の時間に苦手意識を持つようになってしまったのだろう。
ちなみに、今の私が無言の時間をリラックスして過ごせる相手は、息子達ぐらいのものだ。もはや共に暮らす旦那といる時ですら、無言が続くと居心地が悪い。
まぁそれは旦那も私も、かなりのおしゃべり好きだからというだけなのだけれど。基本的にお互いがおしゃべりが好きな場合は、自由にしゃべくっていても問題ない。
……しかし、おしゃべりが嫌いだというわけでもない、私の友人達。彼女達の、暖炉の炎を見ながら無言でいられる、その関係性。……やっぱり、憧れるんだよなぁ……。
子ども、コロナ禍…。贅沢な時間の使い方をしなくなって久しい
「ノンバーバル・コミュニケーション」「非言語コミュニケーション」。それを彼女達のように、ゲームとLINE通話を介してというのは、中々にレベルが高いのかもしれない。
「電話をしていたら、気付いたら3~4時間経っていた」とか、そんなゆとりのあるコミュニケーションの取り方をしなくなってから久しい主婦の私は、どんどんノンバーバル・コミュニケーションが下手くそになっている気がする。
私には子どもがいるということに加えて、このコロナ禍だ。友達の家に泊まりに行って、夜通し話すなんてことは、最近めっきり無くなった。日々顔を合わせる親しいママ友とランチをするにしても、各家庭のお迎えの時間にタイムリミットが発生する。最近の私は何をするにしたって、「気付いたら3~4時間経っていた」というような、贅沢な時間の使い方をしてない。
今の私がもしも誰かと、本物の暖炉を前にしたとしても。何かしらの話題を探して、相手とのおしゃべりを止めないようにするだろう。それは「この人と過ごす時間を無駄にできない」という感覚が、今の私に、過剰にあるからなのだと思う。
無言の時間が成り立つのは、「無駄ではない」という意識があるから
しかし私の友人達は、暖炉の炎を眺めている時間を、決して無駄にしているわけではない。無言のLINE通話を「ノンバーバル・コミュニケーション」に含めるかどうかは微妙だが、それでも彼女達はその時間、同じ「島」にいて、同じ炎を眺めている。
そして2人は、無言の時間の居心地のよさを、共有している。それはつまり、「この時間は無駄ではない」という、意識の共有だ。私が羨ましいと感じるのは、おそらくそこなのだ。
無言で過ごしていても。むしろ、無言で過ごせる程に。「あなたと過ごす時間は貴重なのだ」という意識が、彼女達の間では共有されている。私はそんな2人が素敵だと思う。そしてそんな時間の過ごし方を、きっと私は当分できない。だからこそ、憧れるのだ。
私もいつか、誰かと暖炉にあたりながら、炎を眺めて、無言で過ごしてみたい。