西川美和さんが監督された、映画『すばらしき世界』を観た。12年会っていない父のことを思い出した。
この映画の主人公、役所広司さん演じる三上は人生のほとんどを刑務所で過ごしてきた、元殺人犯である。血の気が多くカッとなりやすいが心優しい彼、出所して不条理なことにぶつかりながらも周りの人に支えられながら、真っ当に生きようと奮闘している姿が映し出されている。
そんな三上の姿を見て、父がふと頭をよぎってしまった。父は今、どうしているのだろうと。
私の中学卒業を機に母と父は「離婚」し、私たちは家を出た
今から12年前。私の中学卒業と高校入学の間の春休みに、母と妹と私の3人はそれまで住んでいた家を出た。私たち3人が家を出て行くまでの数年間、家の空気はあまり良くなかった。あまりというより、全く。よくここまで耐えたなと、子どもながらに思っていた。
私の中学卒業という、私にとってマシなタイミングを待ってのことだったとは思うが、私より5歳年下の妹は小学5年生になるタイミングでの転校となってしまった。妹にとって転校は良かったのかもしれないし、嫌だったのかもしれないし、それはわからないが、当時なぜか申し訳ない気持ちになってしまった。
“片親”だということは、別に大したことではない。そんな人は世の中にたくさんいるし、そんなことよりも苦しくて辛くて大変な思いや、経験をしている人がいることもわかっている。わかってはいるけど、親の離婚で父がいなくなったという事実を、コンプレックスに感じている自分が少なからずいることも事実なのだ。
父がいなくなったという事実を友だちに知られることが嫌だった
当時、私が通っていた高校では、何のための名簿だったのか忘れてしまったが、生徒の名前と父と母の名前が載っていたものがクラス全員に配られた。1年生の時は父、母どちらの欄にも名前があった。入学手続きをした時は、まだ離婚をしていなかったからだと思う。だが、2年生になった時に、父の欄が空欄になってしまった。その時の自分の気持ちをどう表現したらいいのかわからないが、恥ずかしいという言葉が1番近いような気がする。
ずっと同じクラスだった仲の良い友だちも、去年はあった父の名前が今年は空欄になっていることに気付いたと思う。何となくだが、その時すぐにそれを察した。そのことに、今の今まで触れてこない友だちに、今でも感謝をしていると同時に、気を遣わせてしまっている申し訳なさも感じている。
私の記憶も曖昧になってきているがとにかく、父がいなくなったという事実を友だちに知られることが嫌だったことだけは、鮮明に覚えている。
こんなことをコンプレックスに感じるのは、10代の時だけだろう。東京に出てたくさんの人に出会えば、なんてことなくなると思っていた。でも、今でもそれは纏わりついてきている。
例えば、「親御さんはご健在なの?」という質問に対しては「母は元気ですが、離婚しているので父はわからないです。何しているんですかね?あはは!」と、なるべく笑い話になるよう意識しながら答えられる。
でも、「お父さんは何の仕事をしているの?」「田舎のお父さん、お母さんが会いたがっているよ」など、“私に父がいること”を前提として話されると、空気を崩さないために「普通の会社員です」「そうですね、私も田舎に帰りたいです」と、咄嗟の言葉が出てしまうことが多い。
本当のことを言ってしまったっていいのだ。どうってことない。ただ本当のことを言ってしまった後に「嫌なことを言わせてしまってごめんね」という空気になることが嫌であり、その空気がとても怖いのだ。
父にとって今生きている世界が、すばらしき世界であることを願って
15歳という歳で父と離れた私は、父に対して反抗期のまま時が止まり、そして12年の時が進んでしまった。父に会いたいなんて、微塵も思わない。ただ、去年は新型コロナウイルスの影響もあり行けていないが、お盆の時期に父方の先祖のお墓参りにこっそり1人で行っては、死んでいないか確認をしたり、こうやってふとした瞬間に思い出してしまったりする。
ちゃんと働けているのだろうか。できれば、年齢的にも体力仕事をしていてほしくはないけど、そうもいかないのかもしれない。誰かにイジメられていないだろうか。相談できる友だちや仲間はいるのだろうか。1人で孤独を感じていないだろうか。孤独を感じたまま死なれるくらいだったら、誰かと結婚して新しい家族がいた方がいい。モテるような人ではないから、それは厳しいのかもしれない。でも、その誰かとの子どもがいたっていいし、私のことなんか忘れてくれたっていいとさえ思う。
映画の三上のように、まわりの温かい人たちと笑って生きていてくれたらいいけれど、三上のように生きづらさを感じていたら、約15年間、父の娘だった者としては、やるせない気持ちになってしまう。せめて、どうか“人並み”くらいの生活はしていてほしい。
父にとって今生きている世界が、“すばらしき世界”であることを願っている。父がこれを絶対に読んでいないということを大前提として、とあるカフェでマスクの中を濡らしながら、私の思いをここに書き記す。