先日、友人とショッピングをした。コロナ禍でなかなか会えずにいたが、何でも話せる空気感は高校生の時から変わっていない。友人は明るくて常にみんなの中心にいるタイプだった。
一方で、私は人間関係に不器用で物事を考えすぎる癖がある。
「なんで好きじゃないの?女子力」迷って友人に言った「女子力」という言葉
ショッピングをしていると、お洒落な店を見つけた。ルームフレグランスやらアロマやらを取り扱っている店だ。それらはなくても生活に支障がない。だから買わない。
しかし、乙女心の切れ端には、それらに憧れる気持ちがあるのは確かなのだ。
いや、言葉を選ぶと、それらを使っている人は生活にゆとりがありそうという偏見から、そんな人に私もなりたいと妄想させる道具といったところだろうか。友人はきっとこんなことは考えず、見たままを表現し、率直に感動するのだろう。
「ねえ、めっちゃいいにおいする!」
やっぱりそうだ。素直な表現がうらやましい。
「なにこれ?アロマ?」
「っぽいよ!柑橘系かな。幸せな気持ちになるよね」
「確かに。」
間違いない。幸せな気持ちになるのだ。憧れはここにもあるのかもしれない。女子力という言葉が脳裏に浮かんだ。言っても良いか、否か。迷う。沈黙が怖くて言うほかに選択肢がなかった。迷いを悟られないように明るく言ってみた。
「あんまり好きな表現じゃないけど女子力上がりそうだよね!」
「なんで好きじゃないの?女子力」
「女子力」は日本社会にはびこっている無意識の差別用語と定義できるのではないか
純粋な疑問である。友人のこういうピュアなところが好きだ。そして聞かれることは予測できるのにあえて口にした私は、もしかしたら抱いてる違和感について話したかったのかもしれない。
「うーん、なんかさ、ジェンダーレスの時代にそぐわない言葉だなと思って」
「なるほどね、それは一理ある」
「そうなんだよ。女子力って何をもって女子力なのかわからなくない?サラダを取り分けるとか、ハンカチを常備してるとか、それって女子力なのかなって思うことがたまにあるんよ。で、定義がよくわかってないものを発言するの良くないかなとかいろいろ考えてしまった」
「むずいね」
この後友人は何か言っていた気がする。まったく覚えていないが。自分が彼女にどう思われているか気になりつつ、自分の考えを自然な流れで表出していた自分に驚いていたからだ。
その後、私は1人になって悩んだ。そして女子力について「女性が~であるべきという前提が、知らず知らずに人間の脳内に刷り込まれて日本社会にはびこっている無意識の差別用語」と定義することができるのではないか、という考えにたどりついた。
私は、「女子力」という言葉を「世渡り力」へと変えたい
もしかしたら、人間の本質としての性差を何となく言葉にしてみたら「女子力」が生まれ、キャッチーなワードとして広まっただけなのかもしれないが、「男子力」という言葉が流行していないことを考えると女子に課せられるハードルばかりが高く、やはり無意識的な差別だと感じる。
だから私は、この「女子力」という言葉を「世渡り力」へと変えたい。女性が男性を立てるのは日本の文化のひとつかもしれないが、だからと言って何でもかんでも女性が行う必要はない。不条理な世の中を生きるにあたって世渡り上手が得をする。
そう考えると、「旧女子力=世渡り力」は我先にと次々に花を咲かせるためのしたたかな生存戦略に過ぎないのだから、性別に関係ないのではないだろうか。
今年は春の訪れが早い。雑草が花盛りである。