私は男女共学の高校に通っていた。男女間は和気藹々とした雰囲気であり、適切な距離感のある付き合いができる非常に好ましい校風だった。
日頃生活していて性別による差異を感じることは特になかったのだが、一度、男女混合で体育の時間にドッジボールをしたことがある。そのときは何とも奇妙な光景に、現代社会の縮図を見たような気がした。

男子の中でのみボールが回され、お互いに気を使い合っていた

体育の時間に雨が降ると体育館でドッジボールをするのが定番だったが、その日は珍しく男女混合でやることになった。ボールは硬いものを2つ。コートは大きめ。
ドッジボールは当たると痛いし好きではないが、とりあえず内野として逃げ回る。が、当たるのは男子ばかりであり、自分には全然当たらないことに気が付いた。よく見てみると、ボールは男子の中でのみパスされており、女子にボールが回ってこないばかりかそもそも女子が狙われてすらない。コートの端の方に立っている女の子の集団すらも、眼中にすらないという感じ。

万が一、強いボールが女子に当たってしまったときには必死に謝る男の子に困った顔でいいよいいよ、という女の子。聞こえるのは男子の声のみであり、女子はまるでそこに存在すらしていないかのようだった。明らかに投げる力の弱い男の子にもボールを投げる機会が回ってくるのに、球技系の部活に入っている女の子にはその機会すら無かったのだろう。互いに気を使いながらのゲームを、皆が特別楽しんでいる感じはなかった。

「女性だから」という親切心が、女性の活動の場を狭めてしまう

本当に奇妙だった。しかし、男女が共同で社会に出て活動するとこのようなことが起きるのかもしれないとも感じた。
性別による差別の撤廃を求める風潮が強い中、意図的な差別というのはかなり減ってきていると思う。

だが、無意識的な固定観念や互いに気を使い過ぎてしまうような風潮は未だに根強い。その結果、女性がそこに存在していたとしても、結果的に社会的な活動から疎外されてしまうことがありうるのではないかと感じた。

「女性だからこの仕事はきついかな。男子が代わりにやるよ」なんていう言葉は日常生活でよく聞くと思う。実際、それが性別に関係なくこなせる仕事であってもだ。全くの親切心からの言葉であるだけに問題視もされにくいが、まさにこのような男性側の「優しさ」によって活動の場が限られてしまう女性も多いと感じる。女性側の間に漂う遠慮がちな空気の存在も認められる。

誰もが“ドッジボール”を楽しめるルールがつくれたら

どうしたらよかったのだろう。例えば、あのときのドッジボールであれば、相手が誰であっても強い力で投げすぎない、柔らかいボールを使用する、同じ人の間でボールのパスをし続けるのは禁止、などといった参加者全てを対象とした公式ルールを最初に決めておくべきではなかったのか。

社会の中でいうところの法整備。性差別を解消する方向に社会が活気づいている今こそ、このような観点から社会を捉えなおすことは必須だと感じている。

そう、いつか、全ての人がドッジボールを楽しめる社会を。