「花よ、蝶よ」
そんな言葉の通り、大層大事に育てられてきた、一人っ子の箱入り娘。それが私。
「人並み以上なのでは!」と信じてやまなかったこの風貌が、どうやら十人並、雑草の花に群がるそこら辺にいる蝶並であるらしいことに気が付いたのは、成人を過ぎてからのことだった。
「私は特別」
身の程をわきまえるまで、それは絶対的な信念だった。
小学生高学年の時、明らかな肥満児だった私。常に嘲笑の対象だった。それに加えて、育てられ方故の絶対的な謎の自信。
ネットの広告に出てきそうな痛い勘違い女子のようだったと思う。
そんな私でも、自分に向けられていた陰口などには気付き、しっかりと受け止めていた。
「気持ち悪い」
そんな言葉と一緒に流れてくる、あの独特な背筋が固まる空気。その空気で肺が一杯になった時には、必ず鏡を見るようにしていた。
鏡は自分を守るたったひとつの武器だった
「奥二重でかわいらしい」「肌の調子がいい」
思いつく限りのいいところを、鏡の向こうの同じ顔に向かって声をかける。
「今日もかわいい」
心と顔が明るくなくなったら、必ずおまじないを唱えた。
現実逃避。確かにその通りだ。けれど、自分を好きでいることは、私を愛してくれる人たちの気持ちを大切にすることだと思った。
鏡は、その思いを守ってくれるたったひとつの武器だった。
中学・高校も、鏡は武器であり続けてくれた。
ネットが普及した高校時代は、匿名の人から自分のHPの掲示板などで直接的にそういった言葉を浴びることも多かったが、その度に鏡を手にして顔を引き締めた。
「大丈夫、今日もかわいい」
どこにいっても後ろ指を指されているような不安の中、どうにか電車に乗って街を歩いて通学することが出来たのは、自分を信じることが出来たからだったような気がする。
それは、両親が幼い頃から私という存在を肯定する言葉で埋めてくれたおかげでもあった。
鏡を見てもおまじないを唱えられなくなったけど
けれど、社会に出てからは、その効力が通用しなくなった。
「鼻が残念」「体型、どうにかしないの?」などと、面と向かって自分のすべてを否定されることも少なくなかった。
鏡を見る気力が湧かないほどに落ち込んだ。
どうにか気持ちを持ち直して、見つめた顔も、なんだかその言葉通りな気がして、上手におまじないを唱えることが出来なくなった。
「どうして、こんな顔になったんだろう」
一人の部屋で、両親に申し訳ない気持ちで一杯になって、鏡の向こうの同じ顔と一緒に号泣したこともあった。
「ごめんなさい」
そんな言葉で溢れる日は、今日も続いている。
外に出ることが怖いことのほうが多いし、服装も体型を隠すもののほうが多くなった。
「ダイエットや化粧を頑張ればいいじゃない」そんな意識高い系の言葉も知っているし、真っ当だとも思う。そして、それなりにそれらを頑張ってみたこともあった。
でも、そうして得た自分は、なんだか人の目のための存在であるような気がして、しっくりこない。
小学生の時信じた、頑張りすぎない私のほうが魅力的である気がするのだ。
同じ顔を変えるために、自分を取り戻すために。毎晩、「かがみよ、かがみ」なんてこのサイトのタイトルをおまじないにして、夜な夜な魔女に変身する。
必ず、花と蝶に戻る日が来る。
ひとつずつ、自分を信じることからやり直すのだ。