「男勝り」「元気な子」20代前半まではそれでよかった

私は小さな頃から「男勝り」だと言われてきたし、自分でもそんな私を気に入っている。
20代前半まではそれでよかった。元気な子。そう言われきっと可愛がられもした。
私はそういう振る舞いを、おそらく幼稚園から続けている。

例えば、買い物帰りに重いものを持って歩くとか、買ってきた家具の組み立てをやるとか、いわゆる男の子が進んでやってくれるようなことを、男の子が手を出す前にやってしまうのである。
女系家族な私の家では、お父さんが唯一の男だったこともあり、そんなことは普通だった。
そして何より、それにより筋肉がつくとか、より重たいものが持てるようになるとか、そんなことに喜べるくらい私の中身は「男勝り」なのかもしれなかった。

20代前半まではそれらが「元気な子」として片付けられていたことも感じていたし、私はそれでよかった。
しかし、20代半ばになるとどうもそうはいかないらしかった。
社会がそれを不思議がっているのを感じた。
お付き合いした男の子は買い物帰りに荷物を持ってくれようとする。
バイト先の男性陣は進んで重たいものを運んでくれるようになる。
普通の女の子は喜ぶことなのかもしれない。
しかし、私は心に小さな違和感をこっそり抱えていたし、むしろ自分の筋肉が衰えていくことに恐怖さえ感じていた。
それらの申し出を断ろうとするとやはり、不思議な顔をされた。

役割分担を無くせないのは男性のせい。本当にそうだろうか?

こういうことに出くわす度に私は漫画『ワンピース』に出てくるゾロの幼馴染の女の子『くいな』の言葉を思い出す。

「女の子はね、大人になったら男の人より弱くなっちゃうの…
(中略)ゾロはいいね男の子だから…私だって世界一強くなりたいよ!!」

私はこの言葉とこの場面を、よく思い出す。
涙しながらそう言った少女の言葉に共感したに違いなかった。
しかし、全く矛盾して「根本的には間違っている」とも思っていた。

私が感じた社会からの不思議な目は、おそらく、現代まで続く男性と女性の役割分担のせいだと感じる。
男は外で働き、力仕事をなるべくする。そういう役割だから。
女は家を守り、家事育児をする。そういう役割だから。
先人の皆さんのおかげで自由な社会になりつつあるのも感じる。ありがたいことである。
しかし一方で、未だに感じるこの不思議の目。
これを無くすのは難しいということも感じている。

そして私が感じる一番の違和感は、役割分担を無くせないことが男性のせいになっていることだ。
「古い考え方が無くならないのは、古い考えを推奨している男性が未だにいるからだ。」
果たして、本当にそうだろうか?
社会には昔からの考えを大事にしたがる男性がいるものわかるし、私もそれをどんどん食らっている方だ。
しかし、だからといって、頭から「男性だから。女性だから。」と言っているのが自分たちではないか、と思い返してみてほしいと私は強く思う。
そして、古い考えを持った男性を見つけてしまったときに、はなから突き放しているのは自分ではないか、と自分自身を見返す余裕のある人になりたいと、私は思うのだ。

「男性だから」という女性から男性への偏見もあるのではないか

『くいな』の台詞に共感しながらも、間違っていると感じた私の違和感。
女性自ら、強くなれる機会を手放しているのかもしれない。と私は思ったのだ。
生物学的にいうと、体の作りが本当に弱く作られているのかもしれない。
しかし、重たい荷物を持ってもらっているうちに無くす筋肉がある。
男性だから持ってくれる、という女性から男性へのある意味偏見があり、それに縛られた男性が今の考えに至っているのではないかとも感じる。

私が変えたいと思うのは、男性から女性へのあれこれというより、女性も含めた全人類への思いかもしれないのだ。
性別だけでは分けられない、個人への尊敬や個人の個性や個人の体の違い。
みんなが性別を超えて人を人として見られる世界になれば、世の中にはびこる問題たちの大半は起きないのだろうな、と3畳程の小部屋で世界へ思いを馳せてみたりするのである。