「ダンス用ヒールのことで話があるから!女の子だけ集まって!」
そう言われてぞろぞろと小さな部屋に集められる。そこではじまったのはダンスの話でもヒールの話でもなくて、生理の話。義務教育の保健体育を思い出す。しかし冗談のようだが、この時私は22歳だった。
女性だけ集められ、「生理の時は衣装を汚さないように」
小学生の頃からちょこちょことミュージカルの舞台に立ってきた。大学生になってもその魅力に取り憑かれたまま。この時は初めて出演するラブコメディーというジャンルにただひたすら心躍った。
私が舞台に登場する時には必ず異性の相手役がいる。エスコートをされて、デュエットを歌って、ダンスの時は身体を支えてもらう。稽古の時も常に一緒で、自主練習を共にする時間も長い。相手の体調には気を使うし、少しの不安が怪我につながる。いわば一心同体だ。
それなのに、生理の話はここでも男女別にされてしまう。
私たちが別室で「生理の時は衣装を汚さないように対策しなさい!」と半ば怒られているような状況の時、男性キャストは何をしているのだろう。私の相手役は何をしているのだろう。私の衣装が血で汚れてしまったら、きっと助けてくれるのは女性だけ。もしかしたら、男性である彼らは私たちが月に一度、服が汚れるほどの出血を繰り返しているとは知らないのかもしれない。
大道具の準備は男性、ケータリングは女性という役割分担
小さい頃から舞台の裏で男女の役割が違うことが気になった。
例えば仕込み(本番前の舞台作りや準備)の時は、男性が舞台上で大道具やセットの準備をする。女性は楽屋を整えてケータリングを用意する。指示しなくても男女でパシッと分かれて集合するくらい一般的な役割分担だ。
衣装をつけて稽古が始まると、男性が女性キャストの部屋をノックする音が聞こえてくる。衣装が破れたので縫って欲しいと。
舞台メイクも女性キャストが男性キャストに施すという場面に出会うこともある。
酷い時は、子役たちの母親を駆り出して、男性キャストの衣装やメイクをサポートすることも。
私の母が、父でもましてや身内でもない男性の世話をするのは子ども心に不服だった。得も言われぬ薄気味悪さがあった。
「プロになりたい!」あるいは「もうすでに役者を生業としてます!」という人々の集まりなのに、どうして"できない仕事"や"やってもらって当たり前の仕事"が生まれてしまうんだろう。
舞台の上でこそ絵に描いたジェンダーロールを演じてはいるが、舞台裏までこの有様では"表現者"とは言えないのではないか。
意地になって男性キャストと共に大道具をセッティングしていた当時の私と思うことは変わらない。
大人になっても私たちには"女子だけ集められる"
それが当たり前になってしまいたくない。大人になっても生理の話が男女別なんて、そしてそれに違和感を感じない世界なんて、堪えられない。
相手役が生理の時に、避けたい動きや稽古があるだろう。そして自分の体調の変化・不調を言い出せない環境は、男女問わず大きな怪我につながりかねない。それを言い出せない状況に、再生産している環境に私は酷く腹が立つ。
舞台の世界は閉鎖された空間だ。そして特殊な空間だとも言われる。でも今、会社で働きながら「生理痛が酷いけど男性の上司に言い出せない。生理休暇の名目で休みを申請するのが嫌だ。」と言う先輩を見ながら、社会全体が閉鎖された空間であることを痛感する。大人になっても私たちには"女子だけ集められる"時間がある。私たちはまだまだ分断されたままなのだ。
「暗黙化された性別の分断を取っ払うぞ!」と、今日も幼い日の私が手を組もうと誘ってくる。