“言葉の呪い”に縛られた人生を送ってきた。

親やクラスメイト、担任の先生にかけられた3つの呪いが私の心を蝕む

「良い子だから我慢できるよね」と母が言った。ワガママも言えず、聞き分けの良い子を演じた幼少期。仕事の愚痴を口にし、休日にどことなく疲れを見せる両親に「遊んで欲しい」とは言えなかった。母が何気なく口にしたその言葉で、人に甘えることができなくなった。

「笑顔が変」と同じクラスの男の子に言われたその言葉が原因となり、人前で笑うことがなくなった。目がなくなるくらいに、クシャッと笑うのが好きだったのに。私の笑った顔が、誰かを不快にしていた。その事実に耐えられず、心の底から笑うことができなくなった。

「努力家なところだけは評価できる」と担任に言われたその言葉は、「それ以外はダメね」に聞こえた。“努力しないと私には価値がない”、そんな呪いをかけた。

“甘えられない”、“笑わない”、“努力しないと価値がない”この3つの呪いは、17歳になったときに病へと姿を変えた。電車に乗れなくなったから、自転車で高校へ通った。それでも難しいときは、どこかのカフェで一日勉強をしたり、河原で楽器を練習したりして帰宅した。

学校へ通えないことは、悪だと思っていた。そんな“自分”の存在価値が見出せない。「とりあえずこの状態でも努力できる目標を立てて努力しないと…」と思い、やりたいことをなんとか見つけ、その一筋の光にすがるようにして努力をした。「努力しないと価値がない、空っぽな人間だから」と、呪いはますます強くなる代償を払いながら、大学に合格した。

大学生になり「自分でなんとかしなければ」と呪いはさらに強くなった

親元を離れたら、甘えるも何もない。「自分でなんとかしなければ」と呪いはますます強くなり、ついにドクターストップがかかった。大学に行くのを止められ、休養した。大学に通うことすらできない自分に絶望した。

絶望の中で兄がコンサートのチラシを持ってきた。何故かわからないが、足を運ぼうと思った。演奏した曲が、なんだったかは正直覚えていない。暖かい音色に包まれ次の瞬間、頬が濡れた。「変わりたい」「人の心を動かす体験を提供できる人間になりたい」そう思い治療に励んだ。

翌年、大学に復学した。大学に戻ると、自分改革を始めた。音楽という指標だけで自分を測った結果、視野が狭くなった。だから視野を広げるために、音楽以外のこともたくさんした。遊びも趣味も音楽も、自分に無理がない一番楽しめるペースで頑張ることを心がけた。

自分改革を行い、少しずつ自分のペースで「できること」が増えてきた

そんな改革を始めて、丸3年が経過した。甘えることはまだ少し苦手だが、友人に愚痴を吐けるようになった。人に少し甘えるだけで、ここまで生きやすくなるとは思ってもいなかった。

“努力できるところ”は、私の長所の一つで、氷山の一角に過ぎないことがわかった。でも、たまに頑張り過ぎないようにサボる。友達と遊んで、心の底から笑う。そして、次の日からまた頑張る。

“人の痛みがわかる分、他人を否定しないところ”、“目標のためプロセスを考え行動するところ”それから、“喜怒哀楽がコロコロ変わるところ”、特に“クシャッと笑ったときの笑顔”が私の魅力だ。どこも変なんかじゃなかった。私はここに書ききれないくらいの魅力に溢れている人間で、この世界でたった一人しかいない貴重の人材だった。

“私の魅力”という宝石を見つけたら、日々が輝きだした。周りの目を気にしてかかった、“言葉の呪い”を解くのに20年以上かかってしまった。私と同じように呪いにかけられた人に、笑顔になれる魔法をかける“体験”を提供できる人間になるという夢ができた。

この夢のために、今日もクシャッとした大好きな笑顔を絶やさず頑張ろう、そう思う。私の魅力全部を映し出す“笑顔”を武器に、今日も明日も。