一昨年のアニメ放送からドハマりした鬼滅の刃。もちろん映画も観に行って、無事に煉獄零巻も手に入れた。その中の吾峠先生描き下ろしの特別読み切りにあった言葉。
「百人が百人口を揃えてその才能を認め褒め称える者でなければ夢を見ることさえ許されないのだろうか」
この言葉が突き刺さった。
「才能ある人」でいたい私の思いと現実のギャップ
私は、幼少の頃からたくさんのスポーツをやらせてもらってきて、全部それなりに成績も残してきたと静かに自負している。誰かに自慢できるほどの記録や賞やメダルはもっていないけど、まぁ、全国大会に出たこともある。そんな感じ。いつだって頑張ってきたし、努力もしてきたけど全国で入賞するような、1位をとれるような才能はなかった。
もしかしたら、そうやって自分に言い聞かせているだけなのかもしれない。本当はあれくらいの努力じゃ足りなかったのかもしれない。そもそも根本的に、プライドが高い私にとって絶対認めたくないことだけれど、本当は才能なんてこれっぽっちもなくて、すこし運動ができるだけの凡人なのではないか…。でもそれを認めてしまうのが嫌で、自分は才能があるんだと、自分はすごい人間なんだと、自分だけでなくみんなからも賞賛され認めてもらいたくて頑張っている部分もあった。
でもその時点できっと才能なんてないのだと思う。だって、私の周りの才能ある人たちは何かしら突出した武器があったから。
他のスポーツは人並みなのにその競技だけ全国で活躍する一点集中型、どのスポーツをやってもそつなくこなして存在感を見せつけるオールマイティ型…などなど。私にはそういった華がない。
そしていつだって求められるのは成績を残している人たちだけ。そういう環境に身を置いてきたため、世の中は、特に社会にでたら生産性のある者しか必要としていないのだと本気で思っている。
何者かにならなければ価値がない。その思考を転換したら答えが見えた
今、大学3年でこれから就活全盛期に突入しなければならないわけだが、何も武器を持っていない私はどう立ち向かえばいいのかわからない。あぁ、私に他人に誇れるようなものが一つでいいからあればよかったのになと思う。もっと欲を言えば、強烈な才能があればよかったのにと思わない日はない。
だからこそこの吾峠先生の言葉が、何者かにならなければ価値がないと考えてしまう私の心を、凝り固まった思考を洗い流してくれるような心地がした。
この言葉には続きがあって、「清らかでひたむきな想いに才能の有無は関係ない」と書かれている箇所がある。
何も持っていないわたしだけど、情熱だけは持っている。何者にもなれなかったわたしだけど、自分の価値を見出すために頑張れる強さを持っている。才能はないけれど才能と同じくらいの想いは持っているのではないかと、そう思えた。
なんだか自分がいいものになった気分だし、今まで頑張ってきた日々や自分を誇らしく感じられる。自分を卑下していたら、大切な自分の魅力にも気づけない。でも、才能のない自分を認めて自分のことをしっかり見つめなおせた今の私ははっきり言える。
「私のすごいところは、何かに取り組むときにしっかり目標をきめて、それに向かって努力できることです」と。
私らしさが私の武器。人の記憶に残る私でいたい
ありきたりでこれをできる人は大勢いるなんてことはわかっているけれど、唯一無二じゃなくてもいいのかなと思う。あなたもすごいし、私もすごい!でいいのだと。
今でも歴史に名を残すような人になれたらいいなとは思う。
歴史とまではいかなくとも、より多くの人の記憶に残りたいというのが、きっと才能というものに焦がれた私の中の深くて大きな夢なんだと。
でも、誰かの役に立ってその人を笑顔にできたり頼ってもらえることも、とっても素敵なことだと知っているので、人様を羨んで自分を見失わないように、誇りとこの言葉を胸に、自分の人生を謳歌したい。