私を見て、みんなが笑っている。「あなたはどんな人ですか?」と質問された時、いつも思い浮かぶ光景だ。

私はいわゆる“いじられキャラ”みたいだ。意図的に買って出ることもあれば、気づいたらそんな役回りになっていることもある。それを羨む友人もいれば、よくできるねと眉を顰める友人もいる。

いじられることに関して、窮屈に感じていない。でも、本当の自分は?

キャラというと、頑張って演じているような窮屈な印象を受けるが、私自身いじられキャラに対して特段窮屈には感じていない。初めての人でも「仲良くなりやすい」と言ってもらえることも多い。

自分のキャラを隠したいと思ったのは、彼と付き合い始めの時。彼とは元々部活が一緒で、私のキャラを彼は付き合う前から知っていた。しかし、付き合ったのを機に、いじられているのを見られたくないと思った。

夜の電話で「私、実はあんな風にいじられてるけど、ほんとは辛い時もある」と伝えた。彼は「そうだったんだね」と言って、その日の会話は終わった。

次の部活の日、ある男子部員が、“いつも通り”私をからかった。いつもと違ったのは、彼が私を庇おうとしてくれたことだった。その瞬間、心の奥から叫びのようなムズムズした何かが襲ってきて、「そういうのいいから」と口が動いていた。

いじられて辛い思いをしたことが、ないわけではない。電話で話した時は、庇ってほしくて打ち明けたように感じていたけれど、そうではなかった自分の気持ちに驚いていた。何が本当の自分なのか。

辞書で「本当」の意味を調べて、私にとっては気づくことがあった

“本当”と大辞泉で調べてみると、“偽りや見せかけでなく、実際にそうであること”とある。当たり前のように思えるけれど、私にとっては気づくことがあった。それは、いじられることを気に入っている自分、いじられるのが辛いと思う自分、そう彼に伝えた自分、全て“本当の自分”であったということだ。

いじられキャラのおかげで、話しやすいと言ってもらえた。自分では気にしていなかった部分をからかわれて、自分の行動全てに自信が持てなくなった。友達から彼氏という存在になって、私に関して彼だけが知っていることが欲しかった。場面ごとに自分が感じることが、違っていたとしてもその時感じた感情には偽りはなかった。

普段の生活では、アニメキャラやアイドルの自己紹介のように、自分はどんな人か一言で表さなくてもいい、たとえ表したとしても、その言葉に忠実に生きなければいけないという制約もない。そんな中で「キャラじゃないから」と何かを諦めたり、周りの期待に応えなきゃと頑張ったりする必要もない。「いつもと違うね」と言われても、どんな自分も本当に思ったことなら、いつでも“本当の自分”なのだから大きく構えて、「そんな日もあるよ」と軽く返せばいい。私は、そんなことを大辞泉から学んだ。

他人の目を気にして、「自分のどれか」を否定しないであげたい

彼が私を庇ってくれた時、叫びのように襲ってきた感情は戸惑い、違う“本当の自分”が同じ場に居合わせた戸惑いと、いじられるのが嬉しいと感じていた“本当の自分”を否定された戸惑いだったと思う。そして、とっさに片方の自分を否定してしまったのだ。

今あの時に戻れるのならば、彼の庇いに対して、「まあちょっとそう思うこともあるよね」と否定してしまった自分に譲歩してあげたい。どちらも本物だったのだから。

これからもっとたくさんの人に出会って、それぞれの人の前で私は少しずつ違った風にふるまうのだろう。そんな私を見て、八方美人と非難する人もいるだろう。しかしそこで、他人の目を気にして、自分のどれかを否定しないであげたい。瞬間瞬間の自分に胸を張るためには、自分の感情に嘘をついてはいけない。全ての瞬間の自分を愛せるように、自分に正直に生きようと決めた。