3年前の春、職場の後輩からレイプ未遂の被害を受けた。職場に訴えたところ、「セクシャル・ハラスメントはなかった」という最終的な回答を得た。

それはそうだろう、セクハラなどではなく明らかな犯罪なのだから。分かりきったことではあるが、“準強制性交等未遂罪”を“セクハラ”という何となく曖昧で、軽いイメージの中に抑え込みたかったのだろう。その活字を見たときの屈辱は、忘れられない(死ぬまでしっかり覚えておこうと思う)。

性犯罪に対して「女にも隙があったんでしょ」と間違った認識がある

性犯罪は“夜中”、“人気の無いところで”、“見知らぬ人から突然”受けると、思い込んでいる人の多さに驚く。だがわたし自身、かつてはその一人だったのだ。現実は、知人からの被害が圧倒的に多いという。

間違った認識を正しいと信じていて、「女にも隙があったんでしょ」と冷たい目で見ていた自分が、今思うと本当に恥ずかしいし、何て愚かだったのだろうと思う(そもそも隙って何なんだ)。当時の自分を殴ってやりたい気もする。

そしてそのせいで、わたしは自分を責めることを長い間やめられなかった。「わたしに隙があったから」「どうして加害者に勘違いをさせてしまったのか」と。これは自業自得なのか、それとも“おじさん社会”で生きてきたことの弊害か…。

恐れずに「適切な言葉」で真実を伝え、性被害への意識を改善したい

その後、わたしを回復に導いてくれたのは、レベッカ・ソルニットの『説教したがる男たち』という本だった。必死で読んだ。わたしが言葉に出来なかった苦しみが、明確に記されていた。事態を表す“適切な言葉”の大切さと有り難さを知った思いだった。

当時のわたしに教えてあげたいことが山ほどある。数えればきりが無いけれど、一番は「そんな回りくどい説明なんてしなくて良いから、ただ『レイプされそうになりました』と言えば良い。臨床心理士曰くわたしはものすごくパワフルで、それでフリーズ状態から脱却し、奇跡的に阻止できただけ」ということだ。

日本社会の問題点が、やはりここに現れていると思う。適切な言葉で真実を伝えられない、“濁す”社会なのだ。例えば、レイプ、セカンドレイプ、同意、フリーズ、サバイバー等々。わたしがこれらの言葉を知っていれば、きっともっと傷付かずに済んだと思う。恐れずに(多くの場合かなり嫌がられるけれど)これらの言葉を使うことで、性被害に無知な人々の意識を少しでも改善できないものだろうか。

わたしに加害した人間は、平成生まれだった。20代の若い男が、「イヤって言ってるだけで本当は襲って欲しいんだ」と思い込んでいるのだ。昭和生まれの“おじさん”ではないのだ。そこが恐ろしいと思う。時代に逆らうにも程がある。恥を知れ。

わたしは過激な言葉を用いてでも、性犯罪について声を上げるつもりだ

そして、女の中にもそういう考えの人はたくさんいる。“NoMeansNo「いいえ」は本当に「いいえ」”は、ハッシュタグになる位だから未だに浸透していないし、一見突発的な犯行と思われる行為が、実は用意周到で避けられない罠だということを多くの人たちは全く理解していない。

わたしは知人が何人離れていこうと、フォロワーが何人減ろうと、過激な言葉を用いてでも声を上げるつもりだ。だって、現実は言葉以上に過激で苦しく、お先真っ暗なのだから。

そして、悔しいことにわたし自身、“被害者二世”なのだから。