この前、インターネット上で、「お姉ちゃんの友達がエッチな人ばっかりだったから」というウェブマンガが広告に出てきた。自分の息子と同じくらいの少年が、中学生くらいのお姉さんたちにエッチな行為をされている画像に衝撃を受けた。

自分の息子がこんな目に合ったらと思うと、怒りがこみ上げた

私は美大出身で、友達がエッチなマンガを描いている人もいるし、それ自体は好きである。
ただ、この作品は犯罪だ。
紹介文を見たところ、「小学生の男の子を中学生くらいの女の子達が犯してハメドリし、SNSに投稿するとバズる」という内容らしい。自分の息子が、こんな目に合ったらと思うと、怒りがこみ上げた。

読んだ子供が間に受ける可能性もあるし、犯罪を助長するだろう。レイプや痴漢ものも、実際に被害を受けて、死ぬほど苦しんでいる人達がいるのに、それを平気で娯楽にするなんて...。
問題を問題として描いたり、複雑な人間関係の中での性描写であれば、こういった表現もアリだと思うが、ウェブマンガの、子供の手の届く場所に、ただの娯楽として、こんなものを野放しの社会は病的である。

そこで思い至ったのが、このような「痴漢もの」や「レイプ もの」のAVやマンガを許容し消費する社会自体が、男性・女性の両方に、無意識のうちに女の「性」に対する差別感情を植え付けているのではないかということだ。

歴史的に、娼婦などの性を生業にする職業の女性は社会的に人間として扱われてこなかった。日本では「売女」などという蔑称は時代遅れかもしれないが、私が長く暮らしていたイタリアでは、「娼婦」「娼婦の息子」「ブタ娼婦」といった言葉が日常的に飛び交っている。使い方としては、日本で言う「くそっ!」というタイミングや、喧嘩した相手を罵倒する時に使われる。女の性を貶め、弄ぶ表現を「文化」として吸収してしまえば、「女性」をも蔑む無意識の感情が生まれてしまうのは当然だろう。

中学の時、急に自分が「女だ」と感じて恐ろしくなった

AVやエロ漫画ほどの露骨な表現ではないとしても、女の「性」を消費する文化は、日本社会で容認され続けている。
例えば、ハズキルーペのCMでは、何人もの女性のお尻がアップになり、メガネをお尻でチョン、チョン、と触るシーンがある。このCMをみる子どもたちに、私はなんと説明すればいいのだろうか。

私は中学2年生の時、急に自分が「女だ」ということを感じて恐ろしく感じるようになった。スカートの形の機能について思い当たったからだ。
先生たちは「スカートの丈を長くしなさい」とか、「中がめくれて見えないように」などと言うのだが、そもそも足を開けば中にすぐ到達できるような形のスカートを履かせているのは大人ではないのか。
なぜこんな形なのか。私は、社会的に「股を開け」と言われているのかと、怖くなったのだ。そう考えたら、めまいがして、息もできなくなった。中学生くらいは、多感な時期である。そんな女の子があのCMを見た時、「自分もテレビで公に披露され、消費される性なのだ」と思わないだろうか。

もしあのCMを男女逆にして作り直したらどうだろうか。
視聴者からは、苦情が殺到するだろうと私は想像する。それは、「男のケツなんて見たくない」「気持ち悪い」という、一見すると男性差別的な苦情かもしれない。
しかしなぜ、その男のケツを今まで「商品」として美しく見えるように表現しようと思わなかったのだろうか。
それは、男性はあくまで「消費する側」の性であり、女性が「消費される側」なのだという優越感情からではないだろうか。だから、そういう人は男が見た目をどうこう気にしたり、化粧をしたりして「消費される側として媚を売る」ことを嫌うのではないか。

子どもたちが愛し合い、助け合って暮らしていけるように

私が変えるなら、マンガやAV、CM、アニメなど、特に子供にも身近なポピュラーカルチャーを変えることから始めるだろう。
しかし、例えば「風と木の詩」が規制されるような法律には反対である。レイプだって痴漢だって殺人だって性差別だって虐待だって、この世に存在しているものを目に見えなくすれば解決するとは思っていない。そういった要素を持つ作品に共感したり、「面白い」と思うことは、人間の本質だとも思う。

しかし、アニメ、絵本、アイドル、CM、AV、マンガなどの中で、そもそも「ジェンダー」という視点を持たずに作られたものがある場合は、新しい角度から光を当てることは必要だ。意識的に描かれたジェンダーと、なんの考えもなく安易に描かれたジェンダーを区別し、後者にはもう一度適切な表現方法を求めるようなガイドラインがあってもいいのではないか。

そして、これからの未来を作っていく子どもたちが、男も女も愛し合い、助け合って暮らしていけるようにしたい。そのために、私たち大人は、これからの時代に遺したくない偏見や習慣を一つ一つチェックし、取り除く。
私たち一人一人が、自分の子どもや親戚・近所の若者に与える影響はとても大きい。一人ひとりにできることも、沢山あるのではないだろうか。