父は33歳のとき急死した。わたしは当時7歳、弟はわずか4歳だった。死因は、しらない。
母は憔悴しきっていたし、わたしたちは幼かった。親族の誰かはもちろん知っているのだろうが、父の存在を懐かしみ思い出話をすることはあっても今更死因などに言及することはない。きっとこのまま知らないままなのだろうな、と漠然と思う。

父は堅実でしっかり者で、長男の肩書に相応しい人間だったように思う

父は田舎に生まれ、実母が亡くなった後は実父と叔母によって5歳下の弟とともに育てられた。7歳までの記憶だが、父は長男の肩書に相応しい人間だったように思う。自立していて、堅実でしっかり者だった。父とは正反対に柔和で温厚な弟を、幼い頃は守って歩いたのではないだろうか、と想像が膨らむ。
隣町の一番頭のいい高校に入り、自力でお金を貯め教育大学に進学し教師になったという。小学校と中学の国語の教員免許を取り、晩年は市の小学校に勤めていた。
母とは友人の紹介で知り合い、1993年に26歳で結婚し、すぐにわたしが生まれその3年後に弟が生まれた。
そんな堅実街道まっしぐらに見える父には、印象にそぐわないエピソードがいくつかある。

当時スーツかジャージ等が主流であろう田舎町で、父の通勤服はアロハシャツにダメージジーンズだった。おまけに通勤手段はでかくてうるさくてどっしりしたバイク。アロハにダメージデニムに黒いメットとサングラスで通勤してくる若い小学校教諭の姿は、学校の近所では有名だったらしい。

世界一親バカだった父は、担任するクラスの入学式より娘の入学式へ

わたしが小学校に入学する年、父もまた、新1年生の担任だった。市内なので同じ日に入学式が行われたが、父はわたしの入学式に来ていた。自分の受け持ちの新1年生を放って。もはや堅実とは程遠い。破天荒である。親御さんの目にはどう映ったのだろうか…と気になるところではある。

そんな父でも生徒からの信頼は厚かったようで、父の葬式後何年も線香をあげに訪れてくれる生徒さんがたくさんいた。
「先生はクラスでいつもお子さんのことを嬉々として話していたから、リリイちゃんのことはみんななんでも知ってるよ」と言われたことが、幼心に嬉しかったのを覚えている。

そう。父はとんでもなく親バカだった。わたしが知りうる中で世界一の親バカはわたしの父だ。母がわたしを身ごもったとき、大好きな酒も煙草もすっぱりやめた。初めてわたしを沐浴させたときは、その感動をエッセイとして言葉に残した。
わたしのプロフィールにもあるとおり、父は多分言葉を紡ぐことが好きだった。仲間とエッセイ集を手刷りしていたし、数年前、当時そこまで普及していなかったであろうインターネットの海の端っこで父が綴った詩に巡り会ったことがある。いまはもう畝る波に拐われて、みつけられなくなってしまった。
わたしの性格や趣味嗜好のほとんどは父の遺伝であるように思う。今わたしがこうして文字を綴ることもまた然り、である。

自慢の父とは似つかないと思っていた旦那と父の共通点

わたしにとって父はずっと自慢だった。永瀬正敏に似ていてハンサムだったし、いつか結婚するなら父のように堅実で優しく家族想いな人と…と思っていた。
が、蓋を開けてみればわたしが選んだのは、堅実とは言い難い賑やかな男だった。ずっと父とは似ても似つかないように思えていたが、考えてみれば父も旦那もジャパニーズウイスキーと服と音楽が好きで、父はギター、旦那はベース弾きで、収集癖が強く、何よりわたしのことが大好きという点では嗜好はかなり似通っているのかもしれなかった。
父親に似た人を選ぶ、というのは強ち間違いではないのかもしれない。

父に旦那を会わせることが出来たら父は何と言うだろうか。俺に似てると喜ぶだろうか。
まだ子どもを持たない今願うのは、旦那が父を超える世界一の親バカになってくれることだけだ。そればかりは、わたしの見立てが正しいことを祈るしかない。