私は、自分が、人類最高の女性だと思っている。

 というより、「世界中の人間」が、自分は世界一かっこよくて、かわいくて、少々ミスすることはあっても、最高に性格が良くて、自分のことを愛していると思っていた。でも、どうやらその発想はとんでもない勘違いだった。

ごく普通の一般家庭で、恵まれている。本当に偶然、この場に存在して

 その世間とのずれを認識する前に、私がなぜ、そんな突拍子もなく自分のことを高く評価しているのかを述べたい。わたしを客観的な視点からみると、田舎の公立小中高校出身で、奨学金を借りて地方の大学を卒業し、現在は資格取得を目指しながら、アルバイトと勉強に明け暮れている20代前半の女性だ。両親は高卒で企業につとめるサラリーマン。3歳差の弟は今も大学生をしている。特別裕福な家ではなく、特別お金に苦しんだ記憶もない。家族仲は良好で、イベントごとを楽しむごく普通の一般家庭である。
 もちろん、親子間の不仲な人やお金に苦しんでいる人、人間関係で苦しんでいる人からすれば、私は死ぬほど恵まれている存在にみえるかもしれない。しかし、私が恵まれていることなど、とっくにわかっている。私が何か努力したから、良好な関係の家族や学校に行ける金銭的な援助を得たわけではない。たまたま、本当に偶然この場に存在しているからだ。そのことに関して、私は両親や弟に感謝することしかできない。

自分しか知らない自分がいるという信念が、私にはあった。でも実は

 しかし、私が自分のことを最高な女性であると考えているのは、精神的金銭的安定感からだけではない。そう考える一番の根拠は、自分には、自分しか知らない自分がいるという信念である。「わたし」は「わたし」で、誰かの見ている「わたし」は、ほんの一部分の「わたし」なのである。たとえどれだけ理不尽に怒られても、人格を否定されても、第三者には絶対に知ることのない自分がいるという信念が自分を助けてくれるのだ。言い換えれば、人は人、自分は自分、がいきすぎているのかもしれない。
 
 でも実はそこまで自分を評価していない人が多いということ知った。私は、日本人は、自分を下げ、相手を相対的に高める姿勢が尊重される風潮があるから、自己愛を語ると傲慢なやつだと思われ、口外しない人が多いと思っていた。本当に心の底から思っていた。私がそんな世間とのずれを感じたのは、友達との会話からだった。

他人にいい影響を与えられる人間に。だれもが、人類最高の人間だ

 友達は仕事で些細なミスをすると、自分の全部が否定されたと感じ、いつまでも立ち直れないと言っていた。自分の努力が報われなかった経験の積み重ねから、自分の価値が無いように感じるとも言っていた。私は、その子の仕事に対する真摯な姿勢を知っていたし、何より、人一倍周りに気を遣い、他人の長所を褒められる人間だということを知っていたから、そんな風に自分を否定していることが意外だった。他人を評価するように、自分の長所や努力を認めているのではないかと思っていた。
 そんなことから、私はもっと周りを褒めちぎっていこうと思った。すぐには、自分への評価は変わらないけれど、他人に心から褒められたことは、何歳になっても、自分を奮い立たせてくれ、明日を生きる希望になる。そうしたら、みんな自分のことをもっと評価するきっかけになるかもしれない。自分のことを評価するようになったら、知らなかった自分にも出会えるかもしれない。
 どんなに仕事でミスしても、怒られても、いやなことがあっても、自分にしか知らない自分が必ずあるのだ。たまにそれを忘れてしまうことがあっても。私の信念は「人は人、自分は自分」だけど、他人にいい影響はどんどん与えられる人間でありたい。だれもが、人類最高の人間だ。
これが、人とは違う私の感性。