小学生のとき、友達にいわれた言葉が今でも忘れられない。
「緑似合わないよね。茶色とかがいいんじゃない」
ショックだった。緑はお気に入りの色だったから。
でも仲のいい子だったし、それから緑は避けて茶色っぽい服の色を着るようになった。
「緑が似合わない呪い」をいとも簡単に解いてくれた友人
「そのワンピース、すごく似合ってるね」
大学生になって、ずっと敬遠していた緑を着たときに褒めてくれたのは、いつも一緒にいた友達だ。綿地の青緑があんまりにも素敵で衝動買いしてしまったのだけれど、10年続いた「緑が似合わない呪い」を彼女はいとも簡単に解いてくれた。
大学の友人のリップサービスには何の意味もないのかもしれない。
それでも私は緑の洋服を着ることをやっと許してもらえたようで、気が楽になった。
なぜあの子はわたしに緑色を似合わないといったのだろう。
10歳の少女の無邪気な言動に悪意なんてあるわけないけれど、呪いをかけられた意味を考えずにはいられない。穿った見方かもしれないけど「フレネミー」という言葉が浮かんだ。友達を装って気に入らない相手を攻撃するタイプの人間を意味するらしい。
だけどそんな定義が出てきてしまうと混乱してしまう。だって相手を思いやるがゆえの厳しい口調と、相手を嫌な気持ちにするための意地悪な表現の区別なんてつかないもの。
仮にもしわたしを心配してくれた結果のアドヴァイスだとしても、ちょっとデリカシーないんじゃない?悩んでいた頃の自分を成仏させるためにも、思い切って相手を悪者にしてみる。
傷つけるために意図的に言葉を選ぶ人もいるのが現実だ
逆にわたしを傷つけるための意図的な言葉だったなら?
想像しただけで悲しい。どちらにせよ知りたくはないのだけれど。
最近になってやっと、すべてを真に受けないのが一番だと思えるようになった。
「フレネミー」と並んで、「マウンティング」もよく聞くようになった。
相手より優位に立っていることを見せつける(=マウントを取る)のが「マウンティング」の理解だが、確かに「彼に高級バック買ってもらいました(=女として価値が高い)」「また案件決めちゃってさらに忙しくなるの最悪(=私仕事できます)」とかアピールしがちな人はいる。SNSはほとんど利用しないのであまり分からないけれど、個人的にはなぜこんなことを発信するのだろうと本気で不思議に思う。
自慢をする人という見られ方をしてまでも、自分を誇示したいのだろうか?
なんとしても勝者として周りから羨まれたいということ?
そんな現実を目の当たりにしながら、自分が周りに知らしめたい幸せについて考えてみる。
見られ方をコントロールせず、尊重してくれる人と生きたい
わたしが望むのは、ひっそりと立った茶柱を隣の人と笑い合うような幸せだ。
それを喜んでいる自分を見せたい。横にいる相手のそういう部分も見たい。
分かち合える人がいるというのは幸運だ。
特に好きな人とのそれはかけがえがない。少し前だけれど実感したエピソードがある。
電話で彼は、一目惚れした椅子があるから買うんだと嬉しそうにいった。
彼の家でその椅子を見たとき、びっくりしつつ頬がゆるんだ。
だってわたしの大好きな、何度もデートで着た深緑のワンピースと同じ色だったのだもの。
呪いが解けた後に彼と出会うことができて本当によかった。
あなたと好きを共有できるなのならば、たとえ似合わなくても緑のワンピースを着よう。
みんなにどう見られるかを必死にコントロールしようとするよりも、わたしが大切にしている部分を尊重してくれる人と、楽しく丁寧に生きたい。