ショッピングモールのトイレで二度見される。
バイト先では「おい、兄ちゃん!」と呼びかけられる。
いつのまにか、それが自分にとって「いいこと」になっていった。

「自分はかわいくない」。見た目をネタにしているうちに、私は鏡が見られなくなった

わたしは父親似だ。両親の仲が悪く、母と父方の祖母とも良くない関係で、幼い頃からわたしは母に嫌われていた。父の面影があるのが気に食わなかったのだろう。
姉と色違いの浴衣を着ても、幼稚園の生活発表会でも、「○○ちゃんはかわいいね、それに比べてこの子は……」と言われ続けていた。

そのおかげで小学生になる頃にはすっかり、「わたし、かわいくないから~」と自分から言うようになっていた。中学校に上がっても高校に上がっても、そして大学生になってもその癖は抜けず、ときに相手を困惑させながらも「自分はかわいくない」ということを喧伝していた。

高校で始めた柔道部では、勝つためにつけた体重を「わたしデブやからねえ」とネタにし始めたし、周りもそれを笑っていた。体型をネタにして笑ってもらえていれば、ブスでも許されると思っていた。帯でぐるぐるまきにされて「チャーシューだ!」と言われることにも、自分の存在意義を守るもののように感じられた。そして、それに縋るようになっていたのだと思う。

そしてそのうちに、わたしは鏡が見られなくなった。窓に映る自分の顔を見るだけで泣き出しそうになる。スマホにふと映る自分に顔をしかめる。Zoomの画面で自分の顔が映ることが気持ち悪くなり、オンラインで人と話すことが怖くなった。

わたしは、自分で言い広めていたはずの「かわいくない」にがんじがらめになっていた。

「かわいくない」わたしはかっこよくなろうとした。それでも心のどこかか擦り減っていた

「かわいくない」を解くためにわたしは、かっこよくなろうとした。
髪を短くして、モノトーンの服を選んで着るようになり、手持ちのレディース服のほとんどを手放した。いま、私の家にはスカートが一着もない。好きなアイドルの真似をして買ったアイシャドウも、使えないまま部屋で眠っている。
ただそうやって選んだ「かっこよさ」も、「女らしくみえないんだ」と自分を落ち込ませるときがある。
バイト先で「兄ちゃん」と呼ばれるたびに、心のどこかが擦り減っている。

わたしは結局、見た目に縛られているのだと思う。
Zoomの画面を開くのも、歩いているときにふと目に入る自分の姿も、わたしには背筋が凍るくらいに怖い。深呼吸をして、覚悟を決めないとカメラをオンにできないし、わざとコンタクトを抜いて街中を歩いているときもあるくらいだ。

すてきな人たちと笑えるように。卑屈になっている間に、できることがもっとあるはずだ

わたしは、自分の「かわいくなさ」に向き合う強さがほしい。周りの目を気にして「かわいらしさ」に卑屈になっている間に、できることがもっとあるはずだと思うようになった。

わたしの周りにはすてきに笑う人たちがたくさんいる。わたしのことを、「見た目」だけで判断しないでくださることも知っている。
「どうせ、かわいくないもんな」と表情筋をこわばらせるより、周りのすてきな人たちと笑えるようになりたい。

わたしをがんじがらめにする「かわいくなさ」を、周りの人の笑顔でほどいていく。
そうやって、少しずつでも見た目をネタにしなくなっていきたい。