私は小学校が好きだった。担任の先生は、よく褒めてくれた。友だちは優しく、授業は楽しかった。総合の時間に紙芝居を作って、幼稚園で披露した。見ていた子たちが声をあげて笑い、大きな拍手をしてくれた。充実感でいっぱいだったことは今でも覚えている。

それなのに、私の好きだった学校は恐怖の場になった。

小学5年の時に担任が変わり、クラスの雰囲気が少しずつ変っていった

私は5年生になった。担任の先生が変わり、少し雰囲気の変わった私のクラス。初めは学年が変わっても、私の仲の良い友だちやみんなの様子は大きく変わることなく、楽しくやっていた。

しかし、次第に雲行きが怪しくなっていった。ヤンチャな男子のキツい言い方から小さないじめが始まり、バイ菌扱いをされる子が出始めた。バイ菌扱いをされる子もされる子で、癇癪を起こし暴れまわったり、手を出したりと、クラスの雰囲気が崩れ始めた。

女子は女子で、「ぶりっ子がいる」と小さないじめが始まった。たしかに、私から見ても「ぶりっ子」と言われる子は、ぶりっ子だった。「私、そんなのできなぁい」「どうしたらいいかわかんなぁい」と言う姿には私も呆れていた。いじめの対象になっても仕方のないことだと思った。

集団生活だから、小さないざこざはつきものだと思い、私はその場をやり過ごしていた。担任もその場をやり過ごしていたのか、何も対処しない。いや、対処する力がなかったのかもしれない。小さないじめは、クラスの雰囲気をどんどん悪くしていった。

授業中、座っている人が日に日に減った。授業中に喧嘩が始まって、教室から飛び出す子もいた。いじめられた子たちが、学校に来られなくなっていった。さすがに見過ごせなくなった私は、担任の先生にこのクラスのいじめをなんとかすべきだと、何回か日記に書いた。

すると担任の先生は、私にいじめられている子を託すようになった。あなたならやってくれるよね、という圧力。私の学校生活は、窮屈なものになっていった。でも、また学年が変わればこんな生活もおさらばできると思った。

6年になっても変わらずエスカレートするいじめ、そして「学級崩壊」

6年生になった。クラスのメンバーは変わった。これでまた好きだった学校生活ができると思った。でも、担任の先生は5年生の時と同じ人だった。嫌な予感がした。その嫌な予感は的中した。

私の学級は崩壊した。いじめはエスカレートするばかり。配布プリントは宙を舞い、後ろの席まで回らない。教室と外との出入りは窓。授業中に座っていないだけでなく、教室にすらいない人が複数いた。

そんな中、担任の先生は私に、いじめられっ子の一人に連絡袋を届けるよう私に命じた。その子とは以前は仲がよく、同じ趣味の絵の話をしていた。家も近かったため、「学校に来てほしい」と手紙を書いたり、連絡袋を届けたりを続けた。少し面倒だと思った。

でも、いじめをなんとかしたいと思っていたし、学校に来てくれたら担任の先生も喜んでくれるし、クラスの雰囲気も変わるかもしれないと希望も抱いていた。

その子は行事の時だけ学校に来て、授業にはほぼ参加しない。周りの子はそれを気に入らないようで、陰であることないこと騒ぎ立てた。その子の机が荒らされたり、ひっくり返されたりして、私の手には負えそうになかった。

そして、事件が起きた。その子の父親が、クラスに乗り込んできたのだ。色付き眼鏡の長髪で、大柄な人だった。ものすごい剣幕で、私たちに怒鳴り散らした。校長先生と担任の先生が取り押さえていたが、今にも私たちに飛びかかりそうな勢いだった。何人も泣いていた。そして、最後に吐き捨てるように、その子の父親が「お前らぁ!全員死ねぇえ!」と言った。

怖かった。恐ろしかった。衝撃的で、あの時の席、前の席の友だち、取り押さえていた先生…あの時の映像は、消えずに鮮明に残っている。

「こんな学校生活あってはならない」と思い、私は教員を目指した

私の好きだった学校は、恐怖の場と化した。このクラスは、後に暗黒時代と呼ばれるようになった。

これをきっかけに、私は教員を目指した。あの子がいじめられ、あの子の親が乗り込んで、学校を恐怖の場としたことをきっかけに私は教員になった。こんな学校生活あってはならないと思い……。

あの子に送った手紙に返事はなかった。