感情的になった女性に向けられる視線は、性別問わず冷ややかなものである。
一度でも涙声で意見を述べるようなことがあれば、だから女性は上に立つべきではないだの、泣けば何とかなると思っているだの思われ、こいつはヒステリックな奴と烙印を押される。
感情を押し殺して、黙々とやるべき任務を遂行することが良しとされる社会では、エモショーナルな人間は落ちこぼれなのである。
おもちゃを取り上げられて泣き叫ぶのは、女の子だけじゃない
男が感情的になったら、女々しいと馬鹿にされる。
女性っぽさ=感情的に訴えること……あれ、それは女性らしさではなく、子どもらしさではないか。おもちゃを取り上げられて声を荒げて泣き叫ぶのは、何も女の子だけじゃない。男の子だっていくらでも涙を流す。もしそれを女性らしさと言い張るのなら、感情的な女性は未熟な女の子のままということだ。
確かに、私は事務職の女性社員を「女の子たち」と呼ぶ50代後半の男性管理職の下で働いたことがある。
彼のこの発言を到底受け入れられないのは、性別役割分業の印象を受けるからだけではない。見た目も中身も十分に成熟した女性に、まるで未熟で幼い子ども扱いをしている点にもあるのだ。彼は、無意識に女性=女の子と見なしていたのかもしれない。
しかしこの発言は何だか違和感…ではなく、立派な言葉の暴力。
感情を外側に出さないのが大人なら、皆が隠し持っているのは…
平成生まれの「空気を読めない」ゆとり世代である私は、直属の上司に訴えた。黙っている必要なんてない。授業で習わなくてもこっちはこっち世代の常識として語らせてもらった。
後日、昭和60年代生まれの直属の上司にその後どうなったか尋ねたが、まだ伝えられていないとバツが悪そうに答えた。どうかどうか、この昭和から平成への元号の替わり目が、「空気を読む」意味の大きな変換であってほしいと切に思った。
それにしても引っかかるのは、感情的になる女の子らしさは否定されるべきとの価値観だ。感情を外側に出さないのが大人と定義するならば、皆、内側に女の子らしさを隠し持っていると言い換えられる。
美しい物を愛で、悲しみに涙する透明さを隠さなければならないのは
この多感な素直さ――美しい物を愛で、悲しみに涙する透明さを隠さなければならないのは何故なのだろう。感情があるから争いは起こると決めつけているからではないか。
その一方で、感情があるから争いは終焉できることを忘れていないか。無感情であれば当たり前に争いを起こし、一歩通行な意見のもとに終わりはこない。感情を持つことこそが、一見脆く見えるが何よりの強さではないのか。
エモーショナルで何が悪い。涙ではなく、無感情こそが人の弱さの表れでは?
今年の国際女性デー、このアンチ感情的社会を変えるのは子どもたちだと強く感じた。中学校で英語教師として働く私は、授業の冒頭5分で国際女性デーについて言及することにした。
当然出てくるのは「女性だけずるい!」という反応。
そこから制定意義の確認をし、更にこう問いかけた。「女性が男性と同じ権利を持つと、どんな社会になるかな。」
ここでも平成の子どもたちは当たり前に答えを持っている――もっと発展する社会になると。令和の子どもたちは何て言うだろう。また問いかけるのが楽しみだ。