私が「自分自身として」ではなく、「女性として」の意見を初めて求められたのは高校生の頃だった。当時、小保方さんのSTAP細胞で賑わっていた世間は理系女子高校生にインタビューをすることもあり、私はそのインタビューされる女子高校生の1人だったわけだ。

「同じ女性として」だけの意見を求められた高校生の私。心の中に大きなもやができた

インタビュアーは私に、「研究を志す者としてどう思うか」ではなく「同じ女性としてどう思うか」を聞いてきた。
インタビュアーが利用したい私の肩書きは「理系の女子高校生」であるはず。
そして当時高校のプログラムで研究もさせてもらっていたから、研究をしているという背景もあったはず。それにも関わらず「同じ女性として」だけの意見を求められた。

そのインタビュー、研究してる私とか同級生にする必要ある?
そんな質問、適当にどこかで女の人捕まえてきて聞くのと大差なくない?
そう思った。
だけど心の中にできた大きなもやの正体は、この頃はまだわからなかった。

風潮的に「女だから上がれる」。これは本当に男女平等なんだろうか?

時代は進み、現代は女性の雇用を増やすだとか、女性を管理職やリーダーに据えるだとか、女性を積極的に取り入れる努力をしている。
確かに、私の親世代から私の高校時代までを考えればこれは大きな進歩だ。
とはいえ、これは本当に男女平等なんだろうか?

女性を積極的に持ち上げることによる女性への弊害を感じている。
というのも最近よく聞くのは「女性ならそんなに優秀じゃなくても風潮的に上にいけるよ」といった言葉。女なら優秀じゃなくても持ち上げられるからいいよね、というわけである。

こういう言葉を聞くことで高校時代の心にかかったもやがはっきりしてきた。
あの頃の質問は「女性」だけにクローズアップされすぎて、
「女だけど研究者としてここまできたのすごいよね、それに対して女としてどう思う?」
と聞かれた気がしたのだ。

現代は当時と比べて女性の起用が増えたものの、「女だから上がれる」と言われてしまう。高校時代の「女性だけど」とは全く違うように見えるかもしれないが、これも「女性」にだけクローズアップしたような意見だ。

「女性だから」という考え方を変えるには、性別関係なしに認められる努力をすること

私はそんな「女性」という部分にだけ焦点を当てているような言葉が大嫌いだ。
「女性」を立てているようで立てていない、「女性」として一括りにしてそれ以外は見ないようにする周囲が、嫌いだ。
優秀だから起用された、でいいじゃないか。なぜそんな簡単な考え方ができないのか。

理由として考えられるのは、優秀でなくても「女性だから」起用されることが実際にある現場が存在するということ。
「女性だから選ばない」と「女性だから選ぶ」は相反するようで同じだ。

選ぶ時に「女性だから」というバイアスをかけるような、そんな世間の考え方を変えていければ、周囲の「女性だからいいよね」という言葉も減っていくんじゃないかと思う。

私たち女性がこんな周囲に対してできることは、女性という性別関係なしに認めさせるように努力すること。その一点だけだと思う。
そして、もし選ぶ立場になった時には「同じ女性として女性を選ぶ」のではなく、性別関係なしにその人の適性や能力を公平に見られるような人間でありたい。