時代が進むに連れて社会が目まぐるしく変わったことは、揺るぎのない確かな事実だ。
昭和から平成、令和。時が移り変わるにつれて本当に多くのことが変わってきて、それは枚挙にいとまがない。

今を生きる私が、未来に向けて変えたいこと。それは「家族」の関係性

昔は考えられなかった海の向こうのものが直ぐに手に入るし、なかなか会うことができなかった人とも近くにいるかのように話ができてしまう。働き方や生き方もさまざまになって、仕事や一緒に暮らす人を変えることなんかも、昔ほど苦労をしなくなった。
しかし、それはその瞬間で生きた人たちが感じた苦しさや生きづらさから、より良く生きるために汗水を垂らしながら必死になって社会に残してきた、極めて明るい未来に向けた痕跡に違いない。いとも容易く「今」がある訳ではないように思う。

じゃあ、「今」を生きる私たちが、未来に向けて変えたいことといえば何なのか。その問いは、これまでを生きた人たちから、これからを生きる人たちへの論題のような気がしてならない。
そんな風に多くの人の祈りを頭の中で描きながら、心の底から声を出させていただくとするならば、「家族」の関係性を変えていきませんか、と言いたい。

歳を重ねて理解できた母という人間。私との違いを知ることでぶつかることが少なくなった

ここで私の母の話を少ししたい。
私の母はすごい人だ。田舎から東京にやって来て、東京で短大を受験した。しかし独学をして2年後には4年制の大学に編入をし、一流企業に就職。そして父親と出会い、名残惜しくも仕事を辞めて結婚をした。
しかし、どうしても諦めきれずに、新聞広告で見つけた求人に応募して仕事を復活。
当時、父方の祖母に皮肉文句を言われながらも、私を育てながら仕事を再開したらしい。
結局、弟がお腹の中にいることが分かって、その仕事も泣く泣く離れたようだが、思い出してみるとその後も3回以上職を変えて、働き続けながら私たちの学費を出してくれていた。

もう少しで私が「母」となった年齢に近づいているからこそ、改めて綴ったこの生き様に脱帽する自分がいる。
しかし、こんな努力家人間だからこそ、小さい頃から私にも厳しく接することが多かった。
褒められたことよりも叱られたことの方がよく覚えていて、今でも思い出すのは遊園地に家族で行った時、入口の所で入場料の計算を私が間違うと母だけ憤慨をして一日中、口を聞いてくれなかったこと。お父さんが仕方なく私の手を引いて1日連れ回してくれたけど頭の中ではお母さんの顔が気になってしょうがなかった。

私が大学や就職を決めた時も、常に友人の行き先を気にしては「どうしてこう育ったのか」と必ずと言っていいほど口にしていた。あまりにも自然に言うものだから、笑いながらも心の奥底で咽び泣いていたのは記憶に新しい。私は母の意にそぐわない選択をしているのかと。

ただ、母にも母の人生が経験があった訳で、だからこそ子どもに「こうなってほしい」という強い気持ちが生まれたに違いない、と今では思える。
それは母という人間を、私が歳を重ねると共に理解をして知ることができたからだ。相手との違いを知ることによって私も真っ向からぶつかることが少なくなった。

「1人の人間」として相手を知ること。お互いの思考や習慣が違うことを認め合えるように

どこの家でも、それが夫婦でも親子であっても、お互いの価値観の違いから自分の考えを押し付けあったり、相手の考えを否定するかのような言葉を言い放ってしまうことがあったりするように思う。それは、ニュースで虐待やら親殺しなどの報道が絶えない事実が物語っていて、何とも悲しいことだ。

今後、時代が進むに連れてきっとさまざまな選択肢がより広がっていくだろう。これまでの生き方でも満足する人もいるだろうし、これから新しい選択肢で生きていく人もきっといる。

だからこそ、家族の中で相手のことをしっかり知るお互いのあり方が求められているように感じるのだ。
「男性だから女性だから、親だから子だから」ではなく「1人の人間」として。
お互いが生きてきた世界が違うこと、思考が違うこと、習慣が違うことを認め合えると良いなと思う。

誰かの言葉を借りるとするならば、“社会はきっと変わったり変えたりするものではなく、少しずつ変わっていく”もの。「今」を生きる私たちが少しずつ変わっていくことで、これからが少しずつ変わっていくと信じたい。