私にとっての『あの子』とは、「あんたクズだよ」と私に言い放った高校の時の同級生だ。
正義感が強いというより「自己中心的」だった高校1年生の私
私は高校1年の時、無駄に正義感の強い人間だった。と言うよりも、自己中心的な性格だった。女子クラスだった私のクラスでは正義感の強い女子が大半を占めていた為、喧嘩は日常茶飯事ではあったが特別大きないやがらせ等は無かった。常に自分の言いたい事は相手に伝え、その場で問題を解決させていた。
それもあってか、必然的に気の弱い子、あまり自分の意見を強く言えない子は中々自分の意見を発する事が出来ない。と言うよりも、気の強い女子達に圧倒されて何も言えない空気になってしまっていた。
私はその「気の強い女子達」の一員として、日々自分の話したい事を話したいように発信していた。私にとっては相手が悲しんでいない顔をしない限り何を言っても良いと思っていた。だからこそ、無駄に正論をかましながら高校生活を過ごしていた。
「遊びだったんじゃない?」と悩む友達に伝えたら、痛い目で見られた
だがそんなある日、クラスメイトの一人の女の子が色恋沙汰で悩んでいたらしく、何人かでその子の話を聞いてあげていた。その中には気の強い女子もいたし、あまり意見を発しない子だっていた。色恋沙汰で悩んでいた当の本人は、後者のあまり自分から意見を発しない子だった。
その子の悩みは、大好きだった年上の彼が隠れて浮気をしていたという内容だ。彼女はどれだけ彼の事が好きか、彼との思い出がどれだけ大切だったのか、そしてどんなに頑張っても彼を忘れられない事。私は彼女の悩みを聞き、なぜ他の皆はそんな彼女の悩みに答えを言ってあげないのか疑問に思った。
そこで私は皆が彼女の悲しみを聞いている間、呆れてしまい遂に彼女にこう言った。
「要はさ、その彼にとって〇〇ちゃんはセフレだったってことでしょ。最初から遊びだったんでしょ。いい加減目を覚まして、もう忘れなよそんな最低な人!」
この言葉を彼女に言い放った後に知った。その彼は彼女にとって初恋の人、全てが初めてだった人だったのだと。
その言葉を私が言い放った後、彼女は大泣きをして教室を出てしまい、何日か学校を休んだ。私はその時からクラスメイトに痛い目で見られた。それも当然だ。相手の抱えている事情も考えずに自分の好き勝手な正論をかまして勝手に良い気になり、相手を傷つけてしまったからだ。
「ほんとあんたクズ」傷つけた彼女をまた傷つけた私に友達は言った
その事件から数日経ち、やっと彼女は登校出来るようになった。彼女が久しぶりに学校へ来た朝、私は謝ろうと心に決めていた。だが、彼女を見て私は「なんだ、元気じゃん。久しぶり。」こう言ってしまった。言ってから気づいた。またやらかした、と。
この言葉を発した瞬間、私はまた彼女が泣いてしまうかもしれないと思った。だが思わぬ方向からこんな言葉が飛んできた。
「何言ってるの、ほんとあんたクズ。そろそろ相手の事考える人になりなよ。きっとあんたは強いから何言われても心が傷つかないかもしれないけど、みんなが皆あんたみたいに強いわけじゃないんだから。少しは相手の事も考えられるように、成長しなよそろそろ。」
そう言ったのは、私といつも一緒にいたグループの女子だった。彼女も私と同じく正義感の強い、気の強い女性だった。だが私と違う点、それは、「人を傷つける」ような事は絶対にしない子だった。心の芯から優しい、お母さん的な存在の人だった。
「間違いを犯した」と気づけるのは正してくれる人がいるかどうかだ
これを言われた時の私は流石に傷ついた。自分が如何に人の事を考えて過ごしていないか気づかされた。いや、彼女が勇気を持って私に叱ってくれた。他のクラスメイトの誰もが気の強い私に対して言いたかった事を代弁して、皆の前で私に強く叱ってくれた。
若い時は間違いを沢山犯すってよく聞くけれど、その間違いを正してくれる人がいない限り、その間違いを間違いだと思わないで一生を過ごしてしまう人だっている。
私は高校1年の時、正論を言えば全てが丸く収まると考え込んでいた。正論こそが正解だと。だが彼女から言われた一言で、正論は全てが正解ではない。正論によって人を傷つける事だってあるのだ。
こう気付かされて10年程経った今でも、私を叱ってくれた彼女とは連絡を取り合っている。恋愛の話だってするし、仕事の話だってする。ごく普通の親友だ。
だが私は一つだけ言えることがある。それは彼女がいなかったら、私は今も平気で人を傷つけ、それに気づかず、世間から孤立した存在となっていたのかもしれない。
彼女がいたからこそ、人の気持ちを考えられるまともな人間に大きく一歩近づけたのかなと今でも思う。