耳にいくつもピアスをつけ、蛇のような舌を持ち、肌に絵を描いている女。
ギョッとされることもある。好奇の目を向けられることもある。それらを間違っていると抗議するつもりはない。
耳たぶを金属の棒が貫いている状態が普通だとは言えないし、二又の舌を不気味だと感じる人の感性は少数派でもないだろう。
反抗的だとか、暴力的だとか、そういう先入観を否定はできない。それはその人の感じ方であって、わたしの基準とは違うという話だ。

わたしが反論するのは、「体を大事にしなさい」の助言に対してだけである。
声を大にして言う。
わたしはわたしの体を大事にしている!

中学1年生のとき、母親からの誕生日プレゼントで、ピアスをあけた

親から貰った体に、親から貰った穴がある。
中学1年生のとき、わたしは最初のピアスホールを手に入れた。母親からの誕生日プレゼントだ。
母の両耳にはひとつずつピアスがきらめいていて、わたしに憧れを向けられ続けていた。
「あたしも一緒に行って増やそうかな」
ファーストピアスに悩む娘を眺めて笑う彼女はとても可愛らしく、その耳に光る石が一層の期待を掻き立てた。ふたりで皮膚科に行き、ふたりでピアスを選んだ。その日わたしにとって初めての、母にとっては3つめのピアスホールがあいた。
最高、と思った。
ピアスが光る両耳を鏡に見ては、朝に夕にニヤニヤ笑ったのを覚えている。誕生日ケーキは食べればなくなるが、ピアスホールはいつでもここにあるのだ。

それから10年、わたしは自分の意思で改造した体を愛している

それから10年以上が経った。
今、わたしには14ヶ所のピアスホールがある。耳の他、舌にピアスを付けていた時期もあったが、今は無い。スプリットタンのために外したからだ。他には脚にスカリフィケーションも施した。
(念のため注意喚起をしておく。血や瘢痕の画像が苦手な方はこれらの言葉を検索しない方がいい。わたしは、わたしの好きなもので他人に傷ついてほしくない。)

わたしはこれらの身体改造を、そして改造された身体を愛している。何から逃げるためでもなく、誰から強制されたわけでもなく、わたし自身の意思で行った改造だ。
母が娘に誕生日祝いを与えたのは愛情だと思っている。それと同じことだ。
わたしがわたしの体を作り変えるのは愛だ。穴や裂け目の無い体を全きものとして慈しむことと何の差異があるというのか。

育毛効果を期待してまつげ美容液を塗ること。ささくれを防ぐためハンドパックをすること。血行促進目的でストレッチをすること。体型に気を遣い食事を選ぶこと。
これらが「体を大事にしている」とすることに異論がある人はいないだろう。
髪を染めることや、パーマをかけること。化粧をすること。ヒールの高い靴を履くこと。ネクタイをすること。髭を剃ること。
これらだって、ありのままの姿や自然な格好から遠ざかる要素を持っている。しかし、体を大事にしていないと批判されるだろうか?

もっとも、「ラスタファリアンは肌に剃刀を当てない」などといった信教や信条が関わる話は別だ。彼らは教えを強要してこないケースがほとんどだから、別にしなくてもこの話は成り立つ。しかし、ややこしくなるから分けておこうと思う。

個人の感想を否定する術はないけど、あの一言だけは看過できない

誰かに「反社会的に見えた」ことそのものをわたしが否定する術はない。感じたという出来事は終わっているから。これから誤解が解ければ嬉しいし、そのための努力はする。とはいえ、個人の感想は個人の感想だ。
看過できないのは一言だけだ。
わたしやわたしの母親は、自分たちなりの方法で体を大事にしている。
誰にどう見えたとて、それだけは、間違いない。あなたの見え方にわたしたちを合わせる義理はないのだ。

……って、こういう態度を取るから「やっぱりピアスじゃらじゃら付けてる奴は尖ってる」なんて言われんのかな。あーあ!