子どもの名前は何にしよう。
そう思ったとき、私は私の人生を振り返っていた。

名前は、子どもへの初めてのプレゼント

雨の降る公園を、お気に入りの傘をくるくる回しながらゆっくりと散歩する。周りからはただの1人散歩に見えるだろうけど、これはおなかの子と私、2人のお散歩デートだ。
先週の妊婦健診で体重増加を注意された私は、医師に勧められた通り毎日2時間散歩をしている。
近所に大きな公園があってよかったと、引っ越しから3年経って初めて実感した。
晴れた日は鳥や犬やランニングの人々がごちゃごちゃしていて、スマホを見なくても、音楽を聴かなくても、全く飽きずに散歩することができた。

朝、窓を流れ落ちる雨粒に気づいた瞬間、(今日は散歩をやめようかな)と思ったけれど、なんとなく雨音に癒されたくて出てきてしまった。
静かな公園を歩いていると、なんだか頭も心も手持ち無沙汰になった。
何か考えようと頭の中を探していると、案外簡単に課題は見つかった。
「子どもの名前は何にしよう」

妊娠5ヶ月頃に性別が女の子と分かった時も少し名前を考えたけど、なかなか考え方が定まらなくていったん保留にしていた。産まれてから顔を見て決めたっていいじゃないかと思い放置していたが、いざ来月にはいつ産まれるか分からないという状況になると、そんな悠長なことも言ってられないと思い直した。

名前は、子どもへの初めてのプレゼントだ。変なものはあげたくないし、出来れば素敵なものをあげたい。名字とのバランスは気にしてあげたいし、姓名判断で大凶が出てしまうようなものは避けたい。
そして、精一杯の愛を込めたプレゼントにしたい。

子供になってほしくない人間を考えたら、それは「私」だった

精一杯の愛とは、何だろう。
名付けの決め方をスマホで検索すると、どんな人間になってほしいかというポイントで考えることが多いらしい。
どんな人間になってほしいかを考えると、同時にどんな人間になってほしくないかを考えることになる。
そしてそれは、私自身を考えることになる。
なぜなら、私にとって、なってほしくない人間は「私」だからである。

私はコンプレックスの塊だ。
見た目も心も、これでいいんだと、そのままでいいんだと、私は私を認めてあげて愛してあげることが、どうしても難しかった。

幼い頃から人と関わるのが苦手だった。数少ない貴重な友人が私以外の人間と仲良く過ごす姿を見る度に、仕方ないことだと分かっていても、どうしようもなくどす黒い感情が胸の奥から沸き上がり暗い空気に飲み込まれていた。

友達が全然できなくて、華やかな人間関係を作れる人達が羨ましくて、ひたすら自分の殻に閉じこもって図書室に通いつめ本を読みふけっていた学生時代を思い返すと、どうかこの子には私のような暗い人生ではなく明るい人生を送ってほしいと願ってしまう。
でも、そんな負の感情で名前をプレゼントされても困るだろう。
自分が嫌だったからという理由で、これからの未来が無限に広がっている子どもに自分の理想を押し付けるなんておこがましい。

どうすればいいのだろう。
暗い雲と冷たい雨に飲み込まれそうになりながら、おなかをぽこぽこと蹴る娘に呼びかけてみた。
「君はどんな人間になりたい?」
シャイなのだろうか、ぽこぽこが止んで静かになった。

どんなに暗い空が広がっていても、必ず太陽の光が射し込む時が来る

少し疲れてきて、ベンチで休みたいと思ったが濡れた落ち葉がへばりついたところに座る勇気もなく、ベンチの前でしゃがみこんだ。
ふと耳を澄ますと、さっきまでの雨音が消えていた。横からランナーが傘をささずに颯爽と駆け抜けていく。
傘を傾けて空を見上げると、雲の隙間から太陽の光が降り注いでいた。
さっきまでの暗い空気はあっという間に消え去り、木々や草花は潤いに満ちた様子できらきらと輝き、鳥たちは楽しげにお喋りをし始めた。

太陽が出るだけで、こんなにも世界は美しい。
これだ。

「陽」

暗い時もある。それでいい。どんなに暗い空が広がっていても、永遠にそのままではない。必ず太陽の光が射し込む時が来る。そうすれば、世界はこんなにも美しく輝く。そのことを、忘れずにいてくれれば、どんな人生になろうともその道を歩き続けることが出来るだろう。
暗くならないでほしい、ではなく、どんなに暗いときも太陽の光があることを、希望があることを、あなたに覚えていてほしい。

精一杯の愛を込めて。
「陽」
ようこそ、これからよろしくね。