「男女のちがいは人種のちがい」。祖母の口癖である。
どこまでいっても両者の溝が埋まることはなく、わかり合えないからだという。これまでそんな祖母に同調することも、受け入れることもしなかった。
ただ耳を傾け、心の中で、祖母の経験に基づいたその言葉を受け止めていた。
一度だけ、小さな声で反論してみたことがあるが、「今は女が生きやすい時代でいいよね」と真顔で返され、それ以降はまた、黙って聞くようになった。

「西洋における日本人女性のイメージは、eroticでexotic」

私はカナダの大学に入学し、すぐにジェンダー論の授業を受けた。
露出度の高い格好をしたアジア系女性が、日本語のような発音で白人男性を誘う映画のシーンを流して、教授は言った。
「西洋において日本人女性は、exotic(風変わり)でhyper-sexual(過度に性的)に描かれる」
見た目は大人しく控えめだが、白人男性を喜ばせるための“東洋的な”テクニックを豊富に持っている、性的対象物。そういったステレオタイプは、世界中を駆け巡り、様々な人によって議論され、カナダの大学の講義室で座る、私の耳に届いた。
私はそれから、自分の膝においたノートから顔をあげられなくなった。教室中の人が、その場に1人しかいない日本人女性の自分を、好奇の目で品定めしているような気分だった。

ある日、夜遅くまで図書館で勉強していると、男性に呼び止められた。
電話番号をおしえてと言われ断ると、彼は驚いた顔で「どうして?」と聞いた。まるで私が断ることなど想定もしていなかったようだった。
人気のない深夜に、背の高い白人男性に無理やり引き止められる自分と、私にも意思があることを知らないような彼の態度を俯瞰して、そこはかとなく恐ろしくなった。
この人は、私と対等に話をすることを想像するだろうか。“いや”と言えば、それもエキゾチックなプレイの一部だと信じるんじゃないだろうか。
彼の第一声は「君、日本人?」だった。彼の手を振り解いて、その声を脳裏で繰り返し、泣きながら家路についた。

“そんな顔してるけど、本当は好きなんでしょ?”不愉快な幻聴が聞こえるようになってから、自己紹介で「日本人です」と言うことをためらうようになった。日本人が好き、と言う男性と、笑って話すのが難しくなった。

わかり合えないと感じる理由は、両者が対等でないから

ある授業で性教育について話していたとき、大学まで性教育を受けた記憶がほとんどない、と発言すると、様々な国から来た周りの学生は活発に議論を交わしてくれた。
性暴力の温床として真っ先に取り上げられるのは日本であること。日本の性産業がいかに特殊であるか。性に関して発言することを恐れていた自分の声が周りの人に届いた、と感じられたのは、それが初めてのことだった。

ジェンダーギャップ指数120位という数字の大きさを、日本ではなく、カナダの大学の教室で感じることの方が多いのは、なぜだろう。わかり合えないと感じる理由は、人種や性別の違いそのものではなく、両者が対等に話せていないからなのかもしれないのだと、日本を離れてから気がついた。

男女の間に溝はない。あるのは関係性だけだ。
ただ、それが社会でどのようにステレオタイプ化され、話され、理解されているのかということを考えずに、「わかり合えない」と片付けてしまうことこそが、溝を掘る行為なのではないか。

わかり合えないことを、性差や人種のせいにするのをやめませんか

次に祖母に会ったら、こう言いたい。
わかり合えないことを、性差や人種のせいにするのをやめませんか。男と女がわかり合えない背景に、「わかろうとされていないから」だと考えたことはありますか。日本人だと馬鹿にされるのは、人種によって考え方が違うからだと思えますか。そこに存在しうる、力関係について、一緒に話してみませんか。私が思う「わかり合えなさ」の理由を、どうかじっくり、聴いてもらえませんか。

私が世界を変えるなら、まずは私たちが感じる「わかり合えなさ」を「わかろう」とするところから始めたい。すべての女性が失った声を取り戻し、「物」ではなく「人」として、人種や性別の違う人たちと対等に語り合える日が来るまで、周囲にはたらきかけ続けることを恐れずにいたいと思う。