「優しいね」
「いつも助かる」
そんなふうに、よく言われる。
でもそれは必ずしも私の美点ではないと、このごろ思う。

好かれたくて、相手の利益になることをしてきた私。対等な人間関係が傾いてきた

私は優しいと思われたいから、好かれたいからそのように行動しているだけで、結局は自分のためなのだ。容姿がよければ、多少のワガママも許してもらえるのかもしれない。天真爛漫な子であれば、人に頼ってばっかりでも「そんなところもかわいい」となるのかもしれない。
でも、私はそうではない。容姿にも、持って生まれた性格にも、それだけで人に好きになってもらえるような魅力などないと思っている。

だから私は、いかに相手を喜ばせるか、相手の利益になることをするか、そうすることでしか好きになってもらえないのだと思ってしまっているのだ。
たとえば、大学の課題を教える。課題の〆切をリマインドする。レポートのアドバイスをする。ランチをごちそうする…。

一方で、もちろん毎回ではないけれど、課題に関して私が人を頼ったことはないし、「奢るよ」と言われたら断ってしまう。
それが積み重なって、少しずつ、対等な人間関係ではなくなっていく。シーソーが傾いていく。

授業のレポートを見せてと言われた。人間関係の不健全さに気がついて、見せるのを断った

そうやって築いた人間関係の不健全さに気が付いたのは、大学の授業のレポートを、複数人に「参考にしたいから見せて」と言われたときだった。
時間をかけて、参考書を買ってまで作り上げたレポート。それまで気前よく見せたり教えたりしてきた私が悪いのに、そのとき急に「搾取だ」と思ってしまった。
私が対等に付き合っている人は何人いるのだろうか、と思った。
そして、レポートを見せるのを断った。「少しは自力でやってほしい」と伝えた。
それ以来、彼らとは少し疎遠になった。

コロナの自粛も相まって、私の人間関係は整理された。
当然、その中に彼らはいない。ほとんどは、中学時代から付き合いのある数人の女友達と、大学で出会った、両手で数えられるほどの友人だ。
彼ら、彼女らとは、頼られることもあるものの、私が頼っている面も大きく、バランスのとれた対等な人間関係が築けていると感じる。

「利益があるから付き合う」という発想のない人間関係を、私は心地よいと思う

このスリム化した人間関係を、私は心地よいと思う。
今まで広げ過ぎていた、八方美人的な人間関係には、もう戻りたくないとさえ思う。
「利益があるから付き合う」という発想のない世界は、ヘルシーで、軽快だ。いい顔をしまくっていた今までの私に、「何を恐れているの」と今なら言う。

ただ、「人のために何かをしたい」という思想は、私が生まれ持つ美点でもある。
それを「素敵だね」と言ってくれ、「私もあなたに何かをしたい」と言ってくれる人とだけ、私は深く付き合っていくことにする。

今まではこのことを、傲慢で、贅沢だと思っていた。
でも、傲慢なんかじゃないはずだ。これは対等であるための条件なのだから。ただ、私と対等に付き合ってくれる友人がいることは、幸せだと思う。