「世の中、真面目な奴が馬鹿を見る」という言葉はどうして生まれてしまったのだろう。このコロナ禍において、この疑問はますます膨らむばかりだ。

創意工夫を凝らして自粛をしている「真面目な」人はいるのに

 私も含め、「真面目に」自粛をする20代は少なからずいる。嫌々かもしれないが(私個人としては、在宅勤務が当たり前になったことで満員電車に乗らなくて済むようになったのは、むしろありがたい)、自分の家族のため、もしくは、自分自身のため、はたまた、最前線で働く人々のため、創意工夫を凝らして自粛をしている「真面目な」人は一定数いると実感している。

 しかし、現実は、つい先日、一都三県では緊急事態宣言の延長が決定されたり、それに反するように街には前回の自粛とは違い、人があふれ、ニュースでは、私と同世代の若者たちがインタビューを受け、「自粛に飽きた」「周りも出歩いているし、自分もよいだろう」とへらへらと答えている。私のある友人はこのコロナで給料が満額入らなかったり、別の友人はこのコロナ禍で目の敵にされている飲食店で店が休業になったのに感染者数は減らない、更に別の友人は「世の目線が気になる」と長年楽しみにしていた結婚式をキャンセル、更にさらに別の友人はコロナの最前線で日々心もすり減らしながら戦っても同世代が街で遊んでいる姿を見て落胆する……。

 こんな、「真面目な奴が馬鹿を見る」世の中はもううんざりだ。

「真面目な奴が馬鹿を見てばっか」の風習をなくしたい

 思えば、この「自粛」に限らず、日本はいつしか「真面目な奴が馬鹿を見てばっか」だ。
 学生時代は、真面目にコツコツと勉強する生徒よりも、そんな生徒のノートをコピーしてばかりの生徒のほうが、世渡りが上手だった。真面目に部活動に励む生徒よりも、少しふざけている生徒のほうが人気があった。社会に出ても、真面目にコツコツと資料を作ったり雑用をこなす大人よりも、仕事はほどほどでも、アフター6の過ごし方がうまい大人のほうがSNSでは映えていた。

 この差はいったいなんのだろうか。誰がこんな世の中にしたんだ。

 わたしがもし、世の中を変えられる超能力があったら、真っ先にこの問題を解決する。超能力じゃなくても、政治家や、報道関係者、何でもよい。自分が発する力に何かしら世の中を変える力があるなら、こんな忌むべき風習は、絶対になくしたい。

 この風習がなくなったらどうなるのか。妄想するだけでも日々はだいぶ楽しい。

 まず、世の中のニュースの「最近の若者は、」から始まるコメンテーターの言葉は、「医療の最前線で日々患者さんや人々のためにこんな働きをしています」に変わるかもしれない。そんな同世代の姿を見て、アイドルにあこがれるように、そんな「真面目な奴」になりたいという人が増えるかもしれない。もしくは、「こんな先の読めない未来の中でも、若者たちは日々頑張っている」とSNSなどでハッシュタグや「バズリ」がくれば、「若い者には負けてられない」と上の世代の意識も変わるかもしれない。

「真面目に頑張る人」がぎらぎらと輝く時代であってもよいのでは

 本来、人は誰しも、「良心」や「人を思いやる気持ち」など、「真面目」な部分のほうが多いはずだ。
まるで自分が決めたことは何があっても曲げない「武士道」というものがかつての日本では当たり前だったように。けど、いつしか、「真面目」は「ダサい」「古臭い」ものになってしまった。そして、反対語にあるはずの「馬鹿」の分類に入ってしまった。

 だが、いまこそ、この未曽有の危機の中、「真面目に頑張る人」がぎらぎらと輝く時代であってもよいのではないか。「真面目な人万歳!」そんな時代がいつかくれば。それができればこのコロナ禍の希望になれば。
 そう願わずにはいられない。