「外科医、IT企業の社長など、大きな決断をしなくてはならない職業には、サイコパス傾向のある人が多い」というサイトをちらりと読んだ。

わたしは自分の余りにも干からびた、異性への感情を想起し、また自分が外科医の娘であることからも、自分のサイコパス傾向は高いのではと、現時点で結論づけてしまっている。

自分史上最高難度の問題となりつつある、男性への感情のひねまがり方

25歳。様々な経験を積み、いい女になっている…はずだった。大学1年生の時に言われた「君は30歳から急激にモテはじめるよ」の一言を固く信じていたからだ。

現実は、医学部で6年間を青春の幻に、また他人の理想に合わせることに振り回し、しかし、わたしの特徴として嫉妬心が強いこともあり、そこだけは立派に、何とも女らしく友達の恋に嫉妬するのだ。こう考えると、完全にサイコ(Phyco)をパス(Pass)している訳ではない。良いのか悪いのか、しっかりと自分の醜さに打ちのめされている面もある。

とはいっても、男性への感情のひねまがり方は尋常ではない。少なくとも自分史の中では現在、最高難度の問題となりつつある。この様になってしまった原因について考えてみた。そもそも、わたしは好きと、その人自身になりたいの感情の区別がついていない。

小さい頃、動物に夢中にさせてくれた千石正一先生に始まり、最新版はご存知、某アイドル事務所の売れっ子、平野紫輝。心の中にその人が住みだして、よりリアルタイムにするため、言動を追いかけ、自分なりに解釈し、そしてもっと知りたいと思う。

この行動は、好きで手に入れたいからしているのか、その人に憧れて近い存在になりたいからしているのか。しかし、矛盾しているように思われるかもしれないが、予感としてあまりにも自分がその人に似てしまうと、つまらないと思うのだ。だから、心のどこかでは一生遠いままでいいとも思ったりする。

ややこしい。わからない。だから、自分が結婚するだろう男性なんて、もう誰でもいいやなんて感情にもなったりする。だが、なんだかんだ一周まわって結婚はしたい。周りに遅れをとり、あせりの感情を持ちたくない。なんちゅうわがまま野郎だろうか。いや、でも何も手にしていないのだから、言うだけ言ってみるのもわたしの自由だ。

自分の理想を組み上げ、当てはまるモノ以外は嘘だと決めつけている

こんな頭でっかちになってしまった原因をもう少し、考えてみる。自分の転機になってもよかった男性はいなかったわけではない。特に、浪人時代に付き合った人との出会いは、衝撃だった。今までの人生はこの人と話して、笑うために在ったと確信できるほどの、初めての感覚で、今でもそれは嘘ではないと言える。ただ、彼の価値観がわたしにとっていろいろと規格外であったため、途中で付いていけずリタイアした。

大学時代には、記憶を塗り替えたい気持ちもあり、3年程お付き合いした先輩がいた。ただ、その時間をもってしても憧れている、恋のときめきの感情にはならなかった。また、そういった感情がなくても、セックスはできることを知った。自分で書きながら、それって悲しくないか? と思ってきた。

何が悲しいって、自分の気持ちを最優先できてこなかったことだ。ときめきのないセックスしか知らないのだ。このつらさが、嫉妬に繋がっている。

友達はいい恋をしている。平気な顔が出来ない。嫉妬という感情は、自分なりの理想をがっちりと組み上げ、それに当てはまるモノ以外は全て嘘だと決めつけ、はねつける強固な防御壁となって、わたしを守る。

わたしは理想を言語化した上で、地道に「実行すること」をなめていた

しかし、その理想は行動を伴わない空虚なモノだ。言うは易し、行うは難しというが、恐らく、理想を言語化した上で、地道に実行することをなめていた。まずは作り上げられた強固な城の中を、汚かろうが何だろうが開放し、人に見てもらい、そして、皆が行き交う場にすることだ。城の中に囚われず、自分自身は街に出ていき、ただ会話を楽しもう。

小学生で死の恐怖に気付き、これを乗り越える概念を求めはじめてから、早18年。愛は答えになるかもしれないと思ったこともある。楽しみ、生活する中で、一生をかけて添い遂げたいと思える人と出会い、同じ気持ちになる瞬間がこれからあるかもしれない。

これからも幻滅したり、疲れてしまったりするだろう。でも結局、それは自分のせいでも他人のせいでもないのだ。それこそが生活であり、開放された理想なのだ。

そして、わたしの城が汚され、なくされたわけでもない。心が失われたなどと弱音を吐くのは、文章のなかだけにしよう。自分の潜在的な愛を信じよう。