太陽の力はすごいと思う。

目が覚めて、窓から差し込む光を少し浴びるだけで、メキメキと体には力がみなぎってきて「よし。今日も頑張ろう」なんて言いたくなってしまうから。

泣きはらした翌朝や、明日が来なければいいなと思った翌朝も、太陽が出ているだけで体が勝手に「動こう」と頑張ってしまう。

体が勝手に元気になることは良いことと分かっていても、本当は休みたい気持ちに蓋をして、誰かに操られているみたいに頑張ろうとする体に、いつからか違和感を覚えるようになった。

「太陽」の存在が自分にとって、悪影響を与えているのでは?

この話を友人にすると「中二病みたい」と笑われてしまったので、それ以降は心の中に秘めていたけど、本格的に“太陽”の存在が自分にとって悪影響を与えているんじゃないかと思うようになったのは、22歳を過ぎたころからだ。

「いいお天気」とつい言いたくなってしまう、そよ風が吹いていたある日、私のやる気はゼロだった。仕事がうまくいかなくて、パソコンの前に座っても電源は入れたくないし、連絡すらしたくない。誰にも会いたくないとクヨクヨしていた時、郵便屋さんがポストに手紙を投函する音が外から聞こえてきた。

郵便物を取るために外へ出てみると、体を包み込むような優しい風とほどよく晴れた太陽が、どこを探しても見当たらなかったやる気を体の奥底からチャージしてくれて、ゼロだったやる気は45ぐらいまで上がった。

するとさっきまで座れなかったパソコンの前に、なんとなく座ることができて、そのまま流れるようにパソコンの電源をつけ、さっきまで「できない」と感じていた仕事をサラッと始めることができた。

太陽の光を浴びて、エネルギーをチャージして仕事ができるようになる。なんて、すごくいいことのようにも思えるけど、心の奥底につっかかったのは“違和感”の3文字だった。

昔から私は「雨は心地よいもの」だと思っていて、好きだった

ふと「雨だったらどうなるんだろう」と思った。同じような気分や状況が、まぐれみたいにやってくるとは限らないけど「意識して雨を迎え入れてみたい」なんてことを考えていたら、面白いぐらいに雨は降らなくて…意気込んだ日々を忘れてしまうぐらいのタイミングで突然、雨は降った。

サーッと窓の外から聞こえてくる音に、心地よさと少しのワクワクを感じた。窓の傍にピタッとつけているベッドに寝転んだまま、器用に窓を開けると冷たい空気が一瞬で部屋に入ってきた。寝ぼけ気味の頭は冴え、スゥっと息さえ吸いやすい。

そういえば、昔から私は雨が好きだった。雨が降ったとき特有のにおいも。地面からモワンと漂う独特の空気も。「心地よいもの」だと思っていた。

雨が降ると決まって部屋の窓を開けっぱなしにしていたから、家族に「なんで雨なのに窓を開けるの?」と注意をされることもしばしばで、「雨だから開けているのに…」と屁理屈を言って、嫌そうな顔をされたことも思い出した。

大人になって改めて“晴れ”の居心地の悪さを感じた私にとって、この雨は“恵みの雨”そのもの。窓を開けて雨の音を聞いて、冷たい空気を浴びながら「今日は何をしようかな」なんて、いつもは考えないことを考える時間は至福の時間だった。

雨は私らしくない「カラ元気」さに、ストップをかけてくれる存在

きっと晴れていたら、私はグゥーっと伸びをして「よし!今日も頑張るぞ」と気合いを入れて居間におりただろう。でも、雨の日は違う。重ねたクッションに身を預けて、雨が降っている窓を見てダラダラするだけ。これは“雨だから”できることだと思った。

私はどちらかというと、やる気さえでてしまえば、ある程度のことは片づけられるタイプの人間で、それは周りから抱かれるイメージでもある。いつでもテキパキしていて、容量が良くて、しっかりしている。でも、これは本当の自分じゃないことを私はよく知っている。周りに見せている自分は“カラ元気”の状態で、それは晴れた日の自分みたいだ。だから、ずっと違和感を感じていたんだと思う。

雨は私らしくない“カラ元気”さに、ストップをかけてくれる存在だと気づいたとき、「毎日雨だったら本当の私を知ってもらえるのかな」なんて気持ちまで湧いてきて、将来は雨の日が多い場所に住んでみたい。

そう思った私が、雨が多い地域に引っ越しをしたのは“偶然”なのか、“必然”なのかはハッキリわからないけど、いつかは“必然”にしたいと思う。雨は私にとって、自分らしくいられる環境を作ってくれるものだから。