中学生の頃初めて観て、繰り返し何度も観た映画『ティファニーで朝食を』。オードリー・ヘップバーン扮する、どこか不安定で危なっかしく、それでいて華やかでチャーミングな『ホリー』に見惚れた。彼女の生き様が当時の私にはとてもかっこよく見えた。
特に好きな作品終盤の雨のシーン。どこまでも自由に生きたいと願うホリーは、土砂降りの雨の中飼っていた野良猫を捨てる。その猫に自分を投影し、どうか自由に生きて欲しいという願いを託す。
しかし、ホリーに思いを寄せる男性『ポール』から「君は自分の作った檻の中にいる」と諭され、思い直したホリーは雨に打たれながらも必死になって猫を探し回る。ようやく見つけた猫を抱きかかえ、あれほど誰かの所有物になることを嫌ったホリーはポールを愛し、愛されて、所有し合うことが本当の幸せだと気付き二人は熱いキスを交わす。
中学生だった私はそんなロマンチックな恋物語に憧れ、いつか私もホリーのように、心から愛する男性に出会いたいと思った。観る者に『本当の自由とは何か』という普遍的な永遠のテーマを突きつけ、雨のシーンではうっとりするほどのロマンスで私の心は鷲掴みにされた。
1年を通して曇りの日が多いイギリスで、突然の雨に備えていた私
数年後、大学の1年間をイギリスで過ごしていた。深く長い歴史、伝統、由緒正しきイギリスの文化を五感で感じたいと思った。
噂に聞いていた通り、1年を通して曇りの日がほとんどで、夏のように陽気な空模様の日は年に3日しかないと現地の人が揶揄するほどだった。
キャンパスから徒歩15分に位置する学生寮に住んでいた私は、その日の天気予報に関わらずいつ降るやも知れない突然の雨に備え、常に折り畳み傘を持ち歩いた。幼い頃から雨の日は、朝家を出る時にはたとえ降っていなくても、必ず傘を持つよう母にしつけられた。傘を忘れてずぶ濡れで帰った日は風邪を引くとこっぴどく叱られた。
『雨が降れば傘をさす』というのは『お寿司にはお醤油をつける』と同じくらい私にとっては当たり前のことだった。
「これしきの雨で傘をさすなんて女々しい」パブで出会った彼は言った
大学付近のパブで出会った一人の男子生徒と親しくなった。彼はひとつ歳上の同じ大学の経済学部に通う生徒で、いろんなことについて詳しかった。
映画を様々な角度から考察する“フィルム・スタディー”の授業を受講していた私は、映画や異国の文化、歴史について彼に質問することがあった。どんな分野の疑問にも必ず的確な答えをくれる。彼に知らないことはないのかと思うくらい、脳内ハードディスクは知識だらけだった。
かと言って頭でっかちなインテリなわけではなく、大胆でおちゃめなところもあった。テスト明けのパーティでは大騒ぎ、少しデンジャラスなほどにスリリングな体験ができたのも彼のお陰だと思う。
彼のことが好きだった。けれどそれを恋心だと認めてしまうと、せっかく築いた友情関係が崩れてしまうと思うと伝えられなかった。聡明でジェントル、容姿もハンサムな彼は女性にモテていたし、私には言わなかったけれど、ガールフレンドが数人いてもおかしくなかった。彼の人生における数多くの女性たちの中で恋仲ではなくとも、どんな形でもいいから“特別な存在”でいられればいいと思っていた。
日本にいた頃から聞いたり、本で読んだりして知ってはいたけれど、イギリス人は雨でも傘をささないらしい。土砂降りの日はさすがに誰もがさしていたけれど、小雨程度で傘をさす人はあまり見ない。
実際に彼も「男がこれしきの雨で傘をさすなんて女々しい。」と言っていた。彼が傘をさしたり、持っていたことを見たことは無い。それでも私は昔からの癖で傘を持ち歩いたし、少ない雨量でも必ず傘をさした。
傘を持ち歩いていた私。一度だけずぶ濡れで帰ったことがあって
そんな私も一度だけ、傘を持っていたのにずぶ濡れで帰ったことがある。彼と大学の図書館で勉強し、カフェでお茶をしながらお互いの将来について語り合っていた。勉強のこと、家族のこと、仕事のこと。彼は突然「アメリカにいる彼女とは結婚を考えているよ。いつか必ずプロポーズするんだ。」と言った。
全く予期していなかった彼の意気込みを聞かされて頭がフリーズした。
本命の彼女の存在についてはそれ程驚かなかった。それよりも、その事実をこんなにも簡単に私に打ち明けられたことがショックだった。
別に私は彼にとって特別でも何でもなかったのか。その他大勢の女性たちより彼の近くにいた自分は、勝手に優位に立っていると勘違いしてただけ。悔しくて恥ずかしくて、すぐにでもその場から立ち去りたかったけれど、動揺しているとバレるのが嫌で平然を装った。
カフェを出ると、外はざざ降りの雨だった。彼はいつも通り「じゃ!また明日!」と言って傘をささずに走り去って行った。小さくなっていく背中を見つめていると涙が出そうになった。 無邪気に走り去りやがって。どうしようもなく彼に惚れている自分に気付いた。
涙と雨の区別ができなくなった日。皮肉にも映画のような豪雨だった
どうにも泣くのを我慢できなくなり家まで傘をささずに帰ると、もう涙と雨の区別ができなくなって声を出して泣いた。珍しいほどの豪雨だったため、街の人たちは皆自分のことに必死で私に気付く人なんていなかった。
憧れたホリーのように抱きしめてくれる男性はいない。みじめにも私のポールは見向きもせずに去って行った。現実はそう簡単にはいかないし、皮肉にも映画のような豪雨。
けれど少なくともあの時の雨は、私のビターな失恋にほんのりロマンスを演出してくれたんじゃないかと思う。雨のお陰で思いっきり悲しみと戯れることが出来た。
忘れられない青春の思い出に彩りを与えた雨だった。