あの子とは、小学校1・2年生のときに同じクラスで、数人の友達を含め、一緒に遊んでいた。しかし、わがままで図々しく、高圧的な態度のあの子をみんな嫌っていた。おとなしく内気だった私は、あの子に反発する力もなく、されるがままだった。

「私たち、親友だよね?」「そうだね」と私は嘘をついた。

2年生のある日、あの子とブランコで遊んだときのことだった。私が座って、あの子は立って、2人乗りをしていた。
「ねえ、ちゃんと漕いでよ!」と急に怒ったあの子は、土足のまま、座っている私の太腿の上に両足で乗り、2人乗りを続けた。衝撃的な出来事だった。その後、どれくらいの時間あの子に踏まれていたのか、その後も遊び続けたのかは覚えていない。
ただ、そのときに見上げたあの子の満足そうな不敵な笑みだけは覚えている。

3・4年生ではあの子と別のクラスになり関わることもなくなったが、5年生でまたあの子と同じクラスになった。
5年生になったあの子は少し穏やかになっていて、以前のような高圧的な態度をとることはなくなっていたが、あの子はやっぱりみんなから好かれていないようだった。
運動会で同じ係になったのをきっかけに、私とあの子は一緒に行動することが増えた。あの子は私に害を与えることはなくなっていたものの、あの“ブランコ事件”はいつも私の心の中にどっしりと居座っていた。
あの子はきっと忘れているのだろう。あの事件が無かったかのように接してくるあの子に対し、“仕方なく一緒にいるだけ”と、見えないバリアを張って接していた。私は以前のような内気さを脱し、言い返すこともできるくらいになってはいたが、波風を立てないようにそれなりに上手くやり過ごしていた。 

「私たち、親友だよね?中学生になったら一緒に登下校しようね。」
6年生の秋に、あの子が言った。
「そうだね。」と私は嘘をついた。
担任の先生以外には言っていなかったが、私は中学受験をする予定で、あの子と同じ地元の中学校に行くつもりはなかった。
そして、あの子を親友だなんて全く思っていなかった。

「友人代表スピーチしてくれない?」図々しい言い方は相変わらずだった

無事に私は中学受験に合格し、小学校卒業間近にあの子に報告した。
「何で教えてくれなかったの?私も受験すればよかった。」
そう言われたとき、その図々しさに苛立つ気持ちもあったが、あの子と違う中学校に行けることが嬉しさを噛みしめることができた。

あの子とは小学校を卒業してから連絡を取ってはいたが、次第にその頻度も減っていき、徐々に疎遠になった。

小学校を卒業して約10年が経ったある日、突然あの子から電話がかかってきた。
「私、結婚することになってさ。のなよ、結婚式で友人代表スピーチしてくれない?」
電話に出てしまったことを後悔した。図々しい言い方は相変わらずで、他に頼める人がいないのだと察した。
彼女に同情する気持ちと、フォーマルな場でスピーチをするいい経験になるかなという軽い思いで、私はスピーチを引き受けた。

人前で話せるようなあの子との思い出もなく頭を抱えたが、ネットで引っ張ってきたスピーチのテンプレートを参考にし、私は緊張しながらも、そこそこ妥当に役目を終えた。
緊張から解き放たれた披露宴の終盤、新婦のあの子が、両親へ手紙を読んだ。
「小学校で私がいじめられたとき、お母さんは…」とあの子は話し始めた。私は耳を疑った。やっぱりあの子は“ブランコ事件”を忘れた挙句、さらに被害者面をし始めたのかと、私は苛立つこともなく、呆れた。

私もあの子も、人につけた傷はすっかり忘れてしまっていた

そんな結婚式の帰り道、私はふと思い出した。
私は、“ブランコ事件”が起きた時期に、あの子を嫌う友達と数人で、あの子の机の中に消しゴムのカスを入れたり、悪口を書いた匿名の手紙を入れたりして楽しんでいた。“言い出しっぺ”は誰だかは忘れたが、確実に私はその輪に加担していた。
私が“ブランコ事件”を忘れられないように、あの子もまた、小学生のときにつけられた傷は忘れずにいた。
そして、私もあの子も、人につけた傷はすっかり忘れてしまっていた。

あの子の言う「いじめ」が、私たちの行為を指していたのかは分からないが、あの子はまさか、自分の引き出しに消しゴムのカスを入れた犯人が私であるとは思っていないだろう。
そして、親友と思っている相手が、自分を親友とは思っていないこと、そんな相手が一生に一度の結婚式で“友人代表”としてスピーチをしたなんて、夢にも思わないだろう。

私はあの子のことをずっと恨んできた。ひどい人だと思ってきた。
でも、私のほうがよっぽどひどい人なのかもしれない。