あの子がいたからと、思い出せるような記憶は、その記憶を持つ人の美しさを証明してくれるものだろうと思う。

私は誰かを想って、あの時はよかったなどと思い出に浸れるほど優しい人ではないのだろう。

周りより優れていることで、自分の居場所を確認するような卑怯な人間

小学生の頃に撮ったプリクラ。肩を組んだ3人組。その真ん中でニヤリと笑う子と、右端で無邪気な笑顔を浮かべる子。どちらも当時は、私の友達だった。だけど、真ん中の子とは好きな人の取り合いになって嫌われて、恨まれて話さなくなった。右端の子は、常に私のライバルであり親友であるような子で、たくさん遊んだし、好きな子が一緒だったこともあるけれど、お互いがんばろうねなんて話してた。でも、クラスが変わって、距離ができて、気づいたら彼女は引っ越してた。

思えば、私は周りと比べて自分が優れていることで、自分の居場所を確認しているような、そんな卑怯な人間だった。自分よりかわいい子がいれば嫉妬し、自分より褒められる人がいることが嫌で、いつも1番が取れるように塾へ通い、答えを誰よりも先に学んで、鉄棒も夜の公園で練習した。

友達と話している時には、できる私でいないといけないから、優等生を演じきらないと居場所がなかったから、話を合わせないといけなかったから、一人で本を読む方がずっとよかった。

そのおかげか国語のテストでは、知らない漢字もなんとなくで読めるようになっていたし、先生の朝の朗読が遅すぎるから自分で本を借りて読んでいたこともあった。そんなことをしていたら、「私は周りよりできる子なんだ」って思い込むようになって、他人を見下すようになってた。

「優等生」を演じていた私は、友達といても心から楽しめなかった

そんな態度が表に出ないようにまた優等生をがんばって、模範解答を口にし、行動した。でも、ずっとずっと私は友達と心から楽しめなかった。私は話すことを間違えてはいけないし、相手の話をしっかり聞かなくちゃいけなかった。

私が楽しんでいた時、それはたぶん誰かより自分が上にいることに満足しきった時だった。自分が誰よりもできることが証明できたら、やっと私はバカなことを言っても、努力家で優秀な天然キャラとして受け入れてもらえる。

自分のフィールドに相手を引き込んだ時、やっと私は私の思うように動き始める。友達を家に呼んで、家にあるものでお家を作りあって、勝手を知っている自分の家で、友達より豪華な家を建てることがほんとうに嬉しかったし楽しかった。

「あの子がいたから」と、誰かとの時間を大切にできた過去なんてない

そういえてしまう私は、やっぱり「あの子がいたから」なんて、誰かとの時間を大切にできた過去なんてない。思い当たらない。いつも自分勝手だった私は、それを隠すことにだけ必死で、周りからどう見えてるか、自分をどう見せるかに気を取られて、「あの子」になるあの子を覚えることもしなかったんだ。

大学生生活も半ばを過ぎたある日、突然夢に出てきたあの子は、クラスでは全然話したこともなくて、釣り好きで、小学生の頃のあの時期に「勉強するか本読むかしかしてないからパソコンなんて見てない」って優等生ぶっていた頃に、私がこっそり大好きだったボーカロイドを知っていて、お互いにそのキャラを描いた年賀状を送りあった。

「あの子は元気にしているだろうか」と言いたいけれど、そう想うことは私が彼女のことを懐かしむ以上に、自分の優しさの証明が欲しいから、一度話しただけのあの子を「あの子」だと信じ込もうとしているだけに過ぎないのだろう。