家族と会うとき、友達と遊ぶとき、バイト先でお客さんと話をするとき。私は少しずつ違っている。それぞれの社会(あるいはコミュニティ)で求められる私が違うからだ。
家族と会うときは真面目で優しい私。
友達と遊ぶときはたくさんのことは知っているけれど不器用で、いろいろなことで周りより遅れをとる私。
バイト先でお客さんと話をするときは、親しみやすくて聞き上手な私。

中学校での三者面談。学校と家での私のギャップに、先生と母は混乱した

もちろん、100%他人になりきっているわけではない。本当の私と社会が求めている私(どちらも私がそう思い込んでいる私だけど)の間の妥協点になっているのだ。いつからこんな演じ分けをしていたのか記憶は定かではないけれども、それに初めて気づいたのは中学校の三者懇談だった。

母と先生と私、放課後の教室で三人。学校での私の様子や進路についての話が先生からされた。
「普段からとても明るく、クラスでは率先して何でもやってくれていますよ」
「えっ、本当ですか?家ではほとんど何も話してくれていませんよ。こっちから学校のこと聞いても、はっきりした返事はありません」
母の一言で時が止まった。先生と母は学校での私と家での私のギャップに混乱し、私は私で何かを見破られた気がして言葉が出てこなかったのだ。それ以降の記憶はぼんやりしてて覚えてないけれど、私はもっとうまくやってやろうと決心したことは覚えている。

就活を機に自己分析。自分を定義するのにふさわしい私であるかを決められなかった

それから6年、21歳の私はうまく私をやっている。人間関係に大きなトラブルを抱えることもないし、私自身、何か困ったこともない。

それでも大学生も後半を迎える学年になって、「就活」の二文字が頭をよぎるようになると、少し状況が変わった。就活にセットでついてくるものが自己分析だ。自分がどんな人間であるかをこれまでの人生から考え、書面によって定義する。皆が頭を悩ませる問題にご多分に漏れずはまってしまい、身動きが取れなくなってしまったのだ。

人生を振り返ったとき、私はそれぞれの社会に適応した私であったわけだから、どれが自分を定義するのにふさわしい私であるかが決められないのだ。

そんな時、小さい頃に読んでもらった絵本がふと頭をよぎった。題名は思い出せないけれど、話はよく覚えている。自分の色を探すカメレオンの話だ。
ほかの動物は自分の色を持っているのに、カメレオンは自分のいる場所で体の色が変わってしまう。そんなカメレオンはある日、こんなことを考えた。葉っぱの上にずっといたら僕はずっと緑色。僕の色は緑になる。カメレオンは葉っぱの上で過ごしてみたけれど、秋になれば葉っぱは赤くなり、冬になって葉っぱは枯れてしまった。カメレオンは結局、自分だけの色を見つけられなかった。

私やカメレオン。企業が求めている色と自分の褐色の部分を混ぜてきれいな色を作ればいい

私はカメレオンほどきれいに色を変えることはできていないな。いつもどこか褐色がかってしまっているな。そんな風に思った。
それと同時に、それでも色は変わってる。これ以上、自分の色を探しても見つからないな。そんなあきらめも出てきた。

それからの私は強かった。企業が求めている色と自分の褐色の部分を混ぜてきれいな色を作ればいいという方針が立ったからだ。
私はカメレオン。どんな色にだってなってみせる。ただ、褐色がかってしまうことは許してね。