“ルール”。その言葉で思い浮かぶのは、中学1年生の夏休みに起こった出来事。

当時、私は吹奏楽部に所属し、テナーサックスを担当していた。公立中学校あるあるの、資金が楽器まで行き届かない為買い替えが出来ず、ボロボロの使い古しの楽器だったけれど、それでもその洒落たビジュアルと音が好きだった。

真夏日なのにクーラーもついていない音楽室に1年生全員が集められた

市が主催する吹奏楽コンクールに向け、夏休みも顧みずに練習を重ねる日々の中、事件が起きた。真夏日なのにクーラーもついていない音楽室に1年生全員が集められ、先輩達を囲うように並ばされた。

どうやらシャツのボタンを開けている後輩――私と友達のことだ――について、説教する為に呼び出されたらしい。そのことを聞かされた私の中で、抑えきれない程の笑いが込み上げてきた。

真夏日に、たかだかボタンを開けただけで説教をされている今の状況、何? 時間の無駄以外の何物でもなくない? 先輩達から見れば、“ルール違反をしている後輩”が間違っていて、正すべき対象だ。でも、私からしてみれば、“コンクール前の真夏日に、制服のボタンを開けていた後輩を含む1年生全員を呼び出して説教する”という状況が異常で、吹き出してしまうくらい面白くて。

その時の感情を文章に書き起こしてみると、今流行りのうっせぇわみたいなメンタルだと思われることは理解している。けれど、そこに反抗してやろうとか、かっこつけたいという気持ちは一切なかった。

何で後輩が暑い日にシャツのボタンを開けているだけで、怒るのか?

むしろ先輩たちの気迫や怒りをちゃんと感じ取っていたからこそ、それが余計に面白くて。笑ったらどうなるかは明白なので、頑張って口を塞いで我慢していたのに、横にいた友達の顔を見た瞬間吹き出してしまった。

「え、何で笑ってんの?」苛立ちを隠さない先輩にそう聞かれ、どう答えていいのか分からず、「友達がこっち見てくるからー…」と誤魔化した。いきなり話を振られた友達も、最初は「何で笑ってんの」と言って私を非難していたけど、だんだんつられて笑いが止まらなくなってしまい、そんな私達を見た先輩と同級生はドン引いていた。そうしている間に場がしらけて、解散となった。

あの日からもう15年近く経つけれど、抱いた疑問に対する答えは未だ見つけられていない。何で後輩がくそ暑い日にシャツのボタンを開けていただけで、1年生全員を呼び出すほど怒っていたのか。少しでも涼しくなるように工夫した方が、練習に集中できるのではないかとは考えなかったのか。何でそこまでルールを守らせたがるのか。

そもそもそのルールって、いつ、誰が、何のために作ったのか。解散後もぐるぐるとそんなことを考えていた私が“間違い”で、そういうものだと飲み込み、従わない人間を罰する真面目な先輩に疑問を持たない同級生が、“正解”で“正義”だった。

笑いを我慢できなかった私が実行できたかは別問題として、感じた疑問を口に出せば何か変わっていただろうか。ふと考えてみるけれど、タイムマシンはないからもうどうしようもない。

異常な校則に対して声を上げる人を見ると、時を超え救われる気がする

近年、異常な校則に対して声を上げる人たちが出てきたと報じられているのを見て、世の中が確実に変化しているのを感じると同時に、あの日音楽室でマイノリティだった私が、時を超えて救われている気持ちになっている。

あの感覚は、誰かと共有できるものだったのだと、ニュースを見ると勝手に嬉しくなる。黒髪じゃないと駄目? 地毛証明証? 下着の色は白のみ? 女子のズボンは禁止? そんな意味不明なルールなんて、どんどんぶっ壊せばいい。従う人間がいなければ、廃れていくものなのだから。

そうやって、必要ないルールがどんどんなくなり、誰にとっても生きやすい社会になればいいなと強く強く思っている。