「本当、まじめだよね。」
規則正しい両親の下、親のしつけを律儀に受け止めて育ったわたしは、先生に怒られることが何よりも怖い子どもだった。
授業中に手を挙げたり大きな声を出して目立つことも嫌い、心配性や他人の目を気にする性格も相まって、怒られないため目立たないために「優等生でいなければならない」というプレッシャーを感じていた。

とは言っても勉強は得意な方であったし、ただルールを守り続けているだけだったので、プレッシャーに押しつぶされることはなかった。しかし、この言葉を投げかけられたときだけ、プレッシャーを押し戻していた壁は揺らいだ。

「まじめなんだね。」
この、まじめ、という言葉が嫌いだった。
わたしはやるべきことをしっかりやっているだけで、ちゃんとルールを守っているだけで、別にまじめになりたくてなっているわけじゃないのに。なんで人よりも一段上にあげるの?みんなと同じ位置にいさせてくれないの?

わたしは「中の中」になりたかった。まじめ、なんて、みんなとの距離を遠くさせる言葉でしかなかった。

学業面で同級生より少し上に居てしまった小中学時代。優等生の私は崩壊

学校生活で重視されるのは学業である。少しだけヤンチャな人が多い小学校や中学校に通っていたわたしは、9年間、学業の面で同級生よりも少しだけ上の位置に居続けてしまった。いや、居続けるプレッシャーに耐え抜き続けたという方が正しいか。
この9年の間、「優等生でいなければならない」というプレッシャーは少しずつ積もって大きくなり、高校受験が終わると同時にわたしと共に崩壊した。
最後の力を絞り出して合格した進学校の高校では、安心したのか気が抜けたのか、あまり勉強をしなくなった。

そんな高校1年生の夏、初めての定期テストがあった。
対策は行っていたものの、わたしのテストの点数はクラスの中間くらいであることがわかった。わたしは思わず、歓喜した。みんなと同じ立場にいる。普通だ!「中の中」だ!
それだけではなく、世界史の点数はクラスで最下位だったのだ。わたしは興奮冷めやらぬまま友人たちに報告した。「世界史最下位だったんだけど!」

『えー、そうなの!』
『俺より下がいて良かった~』
『え、まじめそうだけど、結構バカじゃん!』
わたしはこの『バカじゃん!』を、一生忘れないと思う。
変態だと思われるかもしれないが、今まで少しだけ距離を感じていた優等生という立場から中間に下りることができて、さらに見下される日が来るなんて!と感動したのだ。新鮮で、初めての距離の近さだった。まじめではないと否定されたことも、純粋に嬉しかった。

「中の中」で気楽になったと同時に感じた虚無感

それ以降、特別に悪い点数を取るわけではないけど良い点数を取るわけでもない「中の中」の状態で、プレッシャーも何もなく、まじめ、と言われることもなく、以前よりも楽な気持ちで高校生活を送ることができた。手を挙げることも怖くなくなった。

ただ、中の立場でいることの虚無感も感じていた。
取り立てて秀でていることがなくなってしまったことで、自分の存在価値について考えることが多くなった。立ち位置のことばかり考えて努力をしないことは良いことなのだろうかと、プレッシャーの代わりに多くの考えがついてまわった。下の立場にわざと落としてアイデンティティを創ろうとしても、なんだか自分を傷つけているように感じてしまって、つらくなるだけだった。

今、大学生活も終わりを迎えようとしている。16年という長くて短い時間を通して、立場に対して「取り繕わない」ことが最善の選択肢だったのかな、と思う。
無理をして上の位置にいても辛くなるだけだが、バカなフリをするのは性に合わなかった。憧れていた「中の中」も、なんだか存在する意味も自分の意思もどこにもないみたいだった。

「まじめ」も本当の自分に対して言われる評価はステキなこと

あの位置に行きたいから自分を変えるなんて馬鹿馬鹿しい、自分がこうであるからこの位置に行くんだ。
人からの見られ方を優先させずに自分を優先させることの大切さがやっとわかった。

わたしはもう、まじめ、という言葉を素直に受け止めることができる。本当の自分に対してまじめ、と言われるなんて、ステキなことではないか。
立場なんて関係ない。わたし個人に対する評価なのだから。