私が自分の「見せ方」を本格的に意識し始めたのは、中学生のときだ。
小学校では、少しずつ人間関係が複雑になってきた高学年の頃、目立つと嫌われてしまうかもしれないからおとなしくしていよう、と思っていたくらいで、あまり深く考えることはなかった。

控えめな方で、挙手することに躊躇してしまうタイプだったけれど

しかし、中学校には内申制度があった。当時、高校にもよるが、入試当日の点数だけでなく、中学校の成績がそれなりに重視されると言われており、さらに、その成績も定期試験の点数のみならず、普段の授業態度が考慮されるという仕組みだった。
その結果、「〇〇先生は元気な子が好きなんだって。たくさん手を挙げた方が良いみたいだよ」とか、「△△先生はまじめにコツコツやる子を評価するみたい。授業内の小テストも気を抜かないことが大事だね」などと皆が話すようになった。

先輩や友人の話を聞きながら、私も先生方を観察するようになり、次第に各先生が求めるものがわかるようになってきた。
私はどちらかというと控えめな方で、答えがわかっても挙手することに躊躇してしまうタイプだったが、積極的な生徒を好む先生の授業ではどんどん手を挙げるようにしたし、指名されて答えるときも、大きくはきはきした声で話すなど、意識するようになった。
生徒とコミュニケーションをとるのが好きな先生であれば、授業後の雑談に加わるとか、何かわからないことについて、両親や塾の先生ではなくその先生に質問してみるとか、そういうこともした。

先生によって自分の「見せ方」を工夫することは、楽しいことだった

そもそも授業に積極的に参加することは生徒の役割だということもあって、先生に取り入っているとか、良い子のふりをしているとか、そういう意識はなかった。
相手に合わせて自らの役割をしっかりと果たすことは重要だと感じており、先生によって自分の「見せ方」を工夫することは、私にとって無理をすることではなく、楽しいことだった。
試験で良い点数をとるために勉強をする、可愛くなりたいからメイクの練習をする、というのと同じで、〇〇という自分になりたいからそのように振る舞う努力をする、ということに疑問はなかった。
1年生の初めの頃は英語の音読すら恥ずかしがっていた私が、最終的に学級委員長を務めたときは、努力すればなりたい自分になれるんだと嬉しかった。

しかし、高校生になった私は、見せたい自分ではない「自分」が出てきてしまうことがある、という事態に気付くこととなる。

OBOGの変化に戸惑い、「限界のときに人の本性が出る」と思った

高校1年生の夏、2,000メートル級の登山という学校行事があり、大学生になった高校のOBOGが数人、生徒の世話をするために来てくれ、一緒に登ることになった。
登り始める前、そのOBOGは、高校の先生が手伝ってほしいと声をかけるだけあって、体力もコミュニケーション能力も充分にある、きらきらしたお兄さんお姉さんに見えた。

ところが、登り始めて数時間、誰もがきつくなってきた頃、あれ、と思うことが増えてきた。
高校生の体力も様々なので、ついていけなくなってきた生徒に声をかけ、励まして一緒に進むのがOBOGの役割のはずなのに、順調な子たちとのおしゃべりに興じて辛そうな子の方すら見ていない人。
スピードの落ちてきた子に、「辛いのはみんな同じだからもっと頑張らないと」と一人一人の状況を考えずにただただ厳しい声がけを続ける人。
今思えば、OBOGは高校生に比べれば年齢を重ねているので、体力が多少落ちていて私たち以上にきつく余裕がなかったのだろうとか、全員を安全に下山させなければというプレッシャーが重くのしかかっていたのだろうとか理解できる部分もあるが、当時の私はOBOGの変化に戸惑い、いつも自分の「見せ方」を自分で決められるわけではないんだ、限界のときに人の本性が出てくるんだ、と思ったのを覚えている。

自分の「見せ方」を工夫するには、相手にベクトルを向けなければ

この経験をした後、余裕がないときにも相手のことを考えられるよう、自分をコントロールする方法について探してきた。
大学生になり、社会人になる中で、様々な経験をすることと想像力を働かせることを通じて、普段から他人の置かれている状況や感じていることを理解しようと努めることが重要ではないかと気付いた。
これは、「この授業で積極的に手を挙げよう」と思って手を挙げる、というようにすぐに対応できることではなく、毎日の積み重ねで少しずつ進歩していくものである。自分の「見せ方」を工夫するに当たっては、自分ではなく、とにかく相手にベクトルを向ける必要がある。

中学生で学んだ、相手の求めるものを理解し、自分をそれに合わせること。
高校生で学んだ、余裕がないときにも相手を思いやれるよう、普段から様々な経験を積み、他人について考えること。
二重の努力により、自分が好きな自分を「見せる」ことができると信じている。