「仕事できないブスとか人生終わってんな」
確かにあの子のTwitterに書いてあった。真偽の程はわからないが、前後の内容から私のことを指しているのは明白だった。初めて見た時はなかなかの衝撃だったと記憶している。悪口を言われたのも、書かれたのも初めてだった。
「人生終わってる」との表現が、私のフェミニスト観に引っかかった
その日、私は仕事で大失敗し、揉めに揉めた。原因は一つだけではないが、私が至らなかったのも確かである。それでかなり落ち込んでいたところに、彼女にとどめが刺された形だった。私はそれからしばらくして、Twitterのアカウントを作り替えた。
この言葉を発見した時、私はなぜか落ち込まなかった。ポジティブに受け入れることができたのである。容姿端麗なあの子にブスって言われるってことは、恐らくあの子が嫉妬するほど私が可愛いってことに違いないと。本当にブスなら、敢えて言及しないだろう。
そんなことよりも気になったのは、次の文である。「人生終わってる」との表現だ。この言葉の意味を逆に捉えると、“顔さえ良ければ女は生きられる”という意味ともいえる。私は少しフェミニストなところもあり、女性でも頑張らないといけない世界にしたいと考えている節があった。だからこそ、引っかかったのである。
きっと、世の女性はこの子のような“美人なら最悪生きていける”という考えが、蔓延っているのだろう。そのことをまざまざと見せつけられてしまった。
自信を持てば持つほど、どんどん綺麗になっていくのを自分で体感した
仕事ができない、それはそうだ。この日は確かに失敗したし、それは私の至らなさゆえ。彼女は何も間違っていない。でも、「ブス」というのはその人の感覚によるものだ。女性は容姿が良ければ、生きやすい。女性は容姿を指摘すれば、落ち込む。そう思われている社会そのものを実感し、とても生きづらく感じた。
とにもかくにも、この言葉を糧に、逆に自分の容姿に自信を得た私は、少しだけファッションを気にするようになった。化粧もするようになったし、髪も巻いてみた。
すると面倒だと思っていたこれらは、案外面白いことに気がついた。“私じゃない私になる”ためにすると考えていた努力も、“今の私を少しだけアップデートする手段”と捉えるようになっていった。
自信というのは不思議なもので、持てば持つほど、どんどん綺麗になっていくのを、自分でも感じていた。そして、少し綺麗になると、もっと綺麗になりたいと思えてくる。勉強をするようになる。そして、また綺麗になるという好循環が生まれた。友人から容姿を羨ましがられるようになったのは、ちょうどこれくらいのことである。
あの子がSNSに私の悪口を書いたおかげで、少しだけ綺麗になった
あの日、あの子がTwitterで私の悪口を書いた。そのおかげで、私は少しだけ綺麗になった。今思い返すと、あの言葉には落ち込むし、あんな風にポジティブに考えたり、女性問題に考えをすり替えたのも、私の心を守るためだったのかなと思う。
でも、あの時追加でTwitterに書かれてあった「顔見ただけでもゲロりそう」との言葉の汚さを思い出すと、余裕がない可哀想な人なんだなと少しだけ静観できるようになった。
言葉をポジティブに捉える。悪くいえば、鈍感力でいい方向に行くこともある。それを確かに感じた経験だった。あの子はあのツイートを私が見ていたことを知っているのか、知らないのかはわからない。でも、確かに私は今、あの子を見返してはいると思う。あとは仕事ができるようになれるよう、少しだけ頑張りたいと思えている。
日々自分の実力のなさに落ち込むこともあるが、頑張ろうという原動力を与えてくれているのは、Twitterに私の悪口を書いたあの子の存在だ。