父へ。
最後に対面してもうウン年になりますね。こちらから完全に連絡を取らなくなったのは、それ以上前からですね。

父との遠い記憶を辿ると、「無」という一文字に行き着く。
父がいなかったというわけではない。在宅時間は確かに多くなかったが、寡黙で、いてもいなくても毒にも薬にもならないような人だなぁ、という印象を子供ながら抱いていた。
だが、せわしなく、いつもうるさく干渉してくる毒母とは対照的に、父は何事も私の好きなようにやらせてくれた。
毒母がヒステリックに私を叱責していても、父は見て見ぬ振りでやり過ごすことで、家庭内の火種を不必要に拡げない、事なかれ主義だった。

そんな父も実は毒親だったと気付くまで、ずいぶん時間を要してしまった。

ヒステリックな毒母だけでなく、実は父も毒親だった

私が大学生の頃、精神的に限界が来ていた毒母は、激務の父に一睡させる間もなく、連夜暴行を加え、罵声を浴びせていた。
私が介入しに行かない限り私に直接的な被害はなかったが、罵声を耳にしながら眠りになんてつけなかった。それに、何かの拍子で、いつ狂乱状態の両親が自室に乱入して来るか気が気でなかった。

それでも父はろくに抵抗することなく、毎晩のこのこと帰宅し続けた。救急車を呼ぶ事態に発展しようが、母がついに私に掴みかかってきて警察沙汰になろうが、だ。
耐えられなくなった私が「離婚なり別居なりしてほしい」と涙ながらに訴えても、父は「親子3人同じ屋根の下で暮らすのが一番だから」「自分は母を見捨てるつもりはない」と綺麗事を並べるだけで取り合ってくれなかった。

父はすっかり母に洗脳され、現状を変えることにすら無気力になっていた。

せめて娘からの信頼という形の存在意義を渇望した父

就職を機に、私は両親に何も告げずに行方をくらました。

父は、母以上に執念深く私の居場所を突き止めようとしていたらしい。
実際、私が逃亡する直前まで仮住まいしていたアパートにストーカーしてきたことがあるし、そこを退去したと知るや否や、転居先を教えろと仲介会社に迫っていたので、想像に難くなかった。
たとえ娘が母親を許せなくなって出て行ったとしても、父親である自分だけは信頼してもらえるという変な自信があったのだろう。
その自信は一体どこから湧いてくるのか、私にはわからない。
いや、むしろ家庭内で居場所をなくし、何者でもなくなってしまったが故に、せめて娘からの信頼という形の存在意義を渇望せずにはいられなかったのだろうか。
または、自分が娘をどれだけ傷つけたか本気で気付いていないほど、娘の気持ちに無頓着だったことの現れなのだろうか。

いずれにせよ、私が父からの連絡を無視し続けていたある日、
「まるでひどい虐待でも受けていたかのようなその逃げ方は、どう考えても異常だ」
と父から届いたメールは忘れられない。

父が吐き捨てた最後の言葉は「意味がわからない」

自分が暴行を加えていなければ、自分が暴言を吐いていなければ、それは虐待とは呼ばないだなんて、まさか思っていないでしょうね?

ストーカーと化した父の面前で父を拒絶した私に、父が吐き捨てた最後の言葉は「意味がわからない」だった。
おそらく、父には一生かけても理解できないのかもしれない。
私がなぜ母だけでなく、父とも絶縁したかを。
父は母の被害者でもあると同時に、私にとっては加害者でもあるということを。
そして私がもう、両親に身を委ねるしか生きるすべがなかった幼い娘ではないということを。
父が払った「20年とちょっと分の無関心」の代償は大きい。

父へ。
あなたと母から解放された私は今、この上なく幸せです。