「お母さん」。私が母の事を自分の母だと思えるようになるまで30年近くかかった。
30歳近くになる私はようやく「お母さん」と会話をする事ができるようになったのだ。

自分の気持ちを言わず、母の期待するであろう言動をとるように

虐待家庭に育った私は幼稚園児の頃からストレスにより髪が抜けていたが、世間体だけを気にする母によりレーザー治療の病院には連れて行ってもらう事が出来た。
幼稚園の友達は「お母さん」「ママ」とお迎えに来る自分の母親のことを呼び、そして楽しそうに一緒に帰って行った。
私はその姿がとても羨ましかった。「友達は家に帰ったら何をするんだろう?」「お母さんと遊んだら楽しそうだな」そんな疑問と妄想だけが膨らんでいた。
私の家では「しつけ」と言う名の「虐待」が待っていたのだ。「今日は家に入れてもらえるかな」「ご飯はあるかな」。気になる事は毎日山ほどあった。
母の機嫌は毎日変わり、時により優しい母も現れた。私はそんな母がまたいつか現れてくると自分に言い聞かせて、虐待されても必死で耐えていた。母の機嫌を悪くしてはいけないと自分の気持ちを言うのをやめ、母の期待するであろう言動をとるようにした。

離婚で、母の精神状態も徐々に落ち着いた。きっと母も苦しかったのだ

その習慣がしみつき私は自分の気持ちが分からなくなった。自分はどうしたいのか、好きなのか嫌いなのか、やりたいのかやりたくないのか。「自分がどうありたいのか」ではなく「期待されているであろう言動」が第一になってしまったのだ。
そうすると自分と周りの世界には常にベールがかかっていて、何もかもが別世界のようになってしまった。「母の期待」に応えようとしていた私は、自分自身を見失ってしまったのだ。そして私は精神的な病になり、多くのものを失った。友人、時間、お金、体力。心も身体もボロボロになってしまった。私が入院中の知らない間に両親は離婚していた。父と母の関係が難しいのは幼いながらにもうっすらと感じてはいたが、知らない間に離婚していたという現実を受け入れるのは容易な事ではなかった。
しかし結果としてこの離婚が母にとってはよかったのであろう。母の精神状態も少しずつ落ち着き、笑顔を見せる機会が増えてきた。きっと母も精神的に苦しかったのだと思う。人間心に余裕がない時はイライラしたり、当たってしまったりするものだ。その言動が激しく表現されていただけなのかもしれない。

この歳になって、「お母さん」と過ごす時間を楽しいと思えるように

私は今ここに「エッセイ」として自分の気持ちを書いているが、このように思えるようになるまでには多くのものを犠牲にし、長い年月が必要だった。
今は母の事を「お母さん」と呼ぶことができる。それは幼稚園の頃私が憧れていたことである。母と一緒に会話や食事、外出も出来るようになった。そこには多くの方々の支援やサポートがあり、私たち母娘は本当の親子になる事が出来たのだ。30歳近くにもなる私は、自分自身が母親になってもおかしくない立場だと思う。そして母はおばあちゃんとなる年齢でもおかしくない。しかし私たち母娘は30年近くの年月をかけて「お母さん」と「娘」になる事が出来たのだ。
憧れていたひと時を過ごす事が出来るようになった私は決して若くはない。
だが、「お母さん」と過ごす時間を楽しいと思えるようになれた事は私にとって大きな気持ちの変化である。
この歳になって改めていう人は多くはないと思うが私は母に「体調には気をつけて過ごしてね」と毎日ラインをしている。
もうすっかり大人になった私ですが、これからも娘としてよろしくお願いします。