「こいつ木偶の坊やから」と、父は言った。
まだ幼かったわたしを会社の人に紹介するときに、そう言った。その日から、わたしは父がだいきらい。許さない。忘れない。絶対に。
物心ついた頃からただの一度だって、父をすきだと思ったことはない
小さい頃から、父という存在が苦手だった。偉そうで、威張ってて、母をこき使う。父のイメージは、物心ついた頃からそんな感じ。ただの一度だって、すきだと思ったことはない。
「お父さんとお出かけした」なんて同級生の話を、いつも信じることができなかった。父とどこかへ行くなんて、死んでもごめんだ。怒鳴られて、馬鹿にされて、泣かされて、1日が終わるだけ。世の中には、なんとも仏さまみたいなお父さんがいたもんだと、羨ましくおもった。わたしにとって父は、まるで閻魔大王だった。
「どうしてそんなにお父さんがきらいなの」と、父と同世代の男性に、そう聞かれたことがある。厄介なことに、父は表向き“普通”のお父さんで、きちんと仕事に行き、家族を養っている。決して、“悪い”お父さんではないのだ。
だからわたしは、責められる。「育ててもらってるんだから、そんなふうに言わないの」「親孝行だと思って、少しは仲良くしてあげなさい」と。
違う、違う、そうじゃない。わたしは、父に感謝していないわけじゃない。ここまで生きてこれたのは、両親がいたからだと、ちゃんと知っている。今日もなんにも困らずにごはんを食べて、なんの心配もなく眠れているのは、両親がいたからだと、ちゃんと知っている。
育ててくれて感謝しているけど、父が尊敬できる人間なわけじゃない
だけど、感謝することと、すきでいることは、全くの別物だと思う。感謝しているからといって、父が尊敬できる人間なわけじゃない。人を見下し、揚げ足をとり、自分勝手に行動する人を、尊敬できるわけがない。
わたしは、父みたいにはならない。こんな人間には、絶対なりたくない。
一時期、父を殺してやると企んでいたことがある。毎晩眠りにつく前に、どうやって殺すかのシミュレーションを繰り返していた。父を殺す夢を見たこともある。だけどそのうち、人を殺したらわたしの人生が台無しになるんだと、ふと気がつくタイミングがあった。父にこれ以上わたしの人生を滅茶苦茶にされてたまるかと、殺害計画を断念したような気がする。
実際、あの時ちゃんと思い止まれてほんとによかったと、今では思う。もう少しで、だいきらいな父以上に、最低な人間になるところだった。人として踏み止まれて、ほんとによかった。こうして今日まで生き続けてこれられて、ほんとによかった。
父に蔑まれた「あの一言」から、わたしの感情は揺れ動くことない
わたしは、父がきらいだ。きっと、この先もずっと、この気持ちが変わることはない。父に蔑まれたあの一言から、わたしの感情は揺れ動くことなく生きてきた。
親子だから。恩があるから。だからといって、すきにはなれない。きっと一生、許すことはできない。
だけど、それでいいと思う。親子だろうが、恩があろうが、きらいなものはきらいなのだ。みんながみんな、理想的な関係を築けるわけじゃない。それでいい。それでいいんだと、わたしは思う。