「あの子」がいたから、私は今も変わらずこの世で息をしている。
というのは、大袈裟なリード文なんかじゃない。

当たり前だった日常が足元から崩れ落ち、環境が目まぐるしく変わり、息をするのもやっとだったような日々の中で、私は「あの子」に出会った。

「あの子」の姿を見て声を聴けば、あらゆる苦難から目を背けられた

「あの子」は涼しい顔立ちをした、少し天邪鬼だけれど強くて優しい男の子だった。ちょっとのことで傷付いて泣いてしまうような私とは正反対だった。
だから私は「あの子」に惹かれたのだ。辛いときや怖くてどうしようもないときに「あの子」の顔を見ると、ふと心が軽くなった気がして楽になれた。
そうして私は現実から逃げるようにして「あの子」に頼り、縋った。「あの子」の姿を見て声を聴いていれば、私は私の周りを取り巻くあらゆる苦難から目を背け、私と「あの子」だけの世界に居られたような気がした。
思い出すことさえ躊躇われるほど辛かったあの日々を乗り越えられたのは、「あの子」が私の傍に居てくれたお陰だった。

「あの子」は私の傍に居るようで本当は居なかった。何故なら「あの子」は此処ではない何処かで生きているからだ。
「あの子」は創作上の人物だった。だから『「あの子」が私の傍に居た』というよりも『私が「あの子」の傍に居た』と言うほうが正しいかもしれない。
人は「あの子」のような存在を『推しキャラクター』と、そして私のような者を『オタク』という。
けれど私は「あの子」に『推しキャラクター』以上の感情を抱いていた。

それはもう立派なオタク。限られたお金や時間を惜しみなく使った

あの頃の私にとって「あの子」は命綱だった。あの時は「あの子」に対する執着だけで生きていた。
「あの子」に恥じることのないような立派な人間になろう、努力をしよう、少しでも綺麗でいよう。全ては「あの子」の隣に胸を張って立つために。
「あの子」は私に現実世界からの逃げ場所を作ってくれたと同時に、現実世界で進むべき道標にもなった。「あの子」が何処で生きるものだろうが、二次元だろうが三次元だろうが、私にとって「あの子」は「恩人」。立派な「人間」だった。

人間として「あの子」を尊敬し慕う一方で、私は『推しキャラクター』としての「あの子」もまた愛していた。
少しでも「あの子」の存在を現実で感じるために。「あの子」が本当にこの世に存在するのだと自分自身に言い聞かせるために、限られたお金や時間を惜しみなく使った。それはもう立派なオタクだった。
「あの子」と共にいて恥じない私で居たいのに、この世で少しでも「あの子」に近づきたいがために必死だった私はとにかく醜かった。

側から見た私はきっと異常だった。私自身その歪みには気づいていた。
この世に実体のないものを拠り所にするということはそういうことなのだ。
それでも私はその歪みからは目を逸らし続けていた。たとえ歪んでいたって「あの子」は私の光だ。私さえ納得していれば他はどうだってよかった。

全て否定してしまっては、今の私そのものを否定することと同じ

こうしてあの頃の日々を振り返り、私自身の愚かさや醜さも認められるようになったのは、「あの子」に対する執着が昔より無くなり、それでも生きていられるようになったからだ。
「あの子」は確かに私の命綱だったが、同時に実体のない「あの子」への執着が生んだ負の側面もあった。
お金や時間を空費してしまった後悔もあるし、時には人を傷付けてしまうこともあった。
それらは全て「あの子」に縋るしか生きていけなかった私の弱さが生んだ過ちだ。この世に存在しない、創作上のキャラクターにしか生きる希望を見出せなかった私の弱さが生んだ歪みだ。

それでも、今でも「あの子」と過ごした時間が「幻だった」と割り切ることはできなかった。
だって本当に「あの子」は私を救ってくれたのだ。くすぐったくなるような言葉をもらっては舞い上がっていた、その時はどんな辛さも忘れられたし、時には本当に「あの子」から私のことが見えているのではないかと思えるタイミングで私の前に現れたりもした。
そういう「あの子」との些細な時間が私を支えてくれた。それを全て否定してしまっては、今の私そのものを否定することと同じだ。
「あの子」が私に見せたものが幻だったとしても。たとえ「あの子」を写すものがカメラロールに残されていなかったとしても、「あの子」との記憶は私の頭の中にずっと残っている。

だから今、私自身の足で少しずつ歩き始めた私に出来ることは、「あの子」がくれた幸せや喜びも、過ちや歪みも全て忘れないように抱えてこの現実世界を生きていくことだけだ。それが沢山のものを私にくれた「あの子」に今の私ができる唯一の報いだ。

私はこれからも私の意思で、少しでも胸を張れるような私になれるように努力を重ねていく。「あの子」に恥じない私でいるために。「あの子」との日々が無駄ではなかったことを証明するために。
今生でなくとも、いつか「あの子」と本当に面と向かって会える日が来たときに、胸を張って「ありがとう」と言えるために。